ロームシアター京都の矛盾――ローカルとグローバル

 「日本の文化政策は終わっている」。あるいは、はじまってすらいない。そんなことはほとんどの文化芸術関係者の共通認識である。思想も理念もなく、目先の助成金ほしさに作文のうまい人間と行政にかかわりのある人間が血税をつまみ食いしているにすぎない。私もいくつか試食したことがある。まかないをもらったこともある。西田氏と野村氏と話す機会を持ちたいと思ったのは、この矛盾と欺瞞に満ちた文化政策の先端に彼らが立たされているのではないかという老婆心を抱いたからである。両名は、ロームシアターの事業「レパートリーの創造 ホープス」で、レパートリーという「ローカルを意識せよ」という要求と、海外進出という「グローバルを意識せよ」という要求という、ダブルバインドに晒されているのではないか。

 いざ表立ったときに、「多目的」だとか「どなたでもどうぞ」のように、「対象」を曖昧にすることで「公共性」(≠パブリック)を偽装しようとする日本らしいといえば日本らしい発想ではあるのだが、いい加減、この「なんとなく」は、やめてほしい。演劇とは本質的に「排除の芸術」である。劇場にいる者以外の全員を排除してやっと演劇が成立する。このような現実を無視して、京都の市民も排除したくない、それ以外の人々も排除しないなどという幼稚なリベラル的思考の枠組みで、税金の使い道をブラックボックス化するようでは、政府によって文化予算が削られるときに、大した反論もできないままである。

 確固たる理念やそれを伝えるメッセージなしに、劇場は安定しない。これまで日本の劇場は、バブル期までの遺産を食い荒らす形でのみ、細々と生き残ってきた。そして今や遺産は失われ、ジリ貧になり、意味や意義の説明を求められたとき、依拠するのはいまだにヨーロッパ的なあり方というのは何と情けないことか。時代は劇場よりもパチンコ、パチンコよりもカジノへと移ろうとしている。あくまでいくつかあるうちのファッションの一つでしかないなかで、芸術は、生活には必ずしもなくてはならないものではないという事実を受け入れ、いたずらに芸術の対象を何とするかの議論に逃げることなく、真剣に向き合わねばならない。言うまでもなく、根本的に文化が異なるので参考にはなってもそのままヨーロッパの構造を日本に持ち込むことはできない。おそらく、しかし、レパートリー制に取り組んでいる多くの事業も、「ヨーロッパがやっているのでなんとなく正解に見える」くらいの認識しかないのだろう。もっとひどいのは「あの人が言っているのでなんとなく正解ということにする」というもので、どちらかといえば後者のほうがアジア的行政である。もちろん、レパートリー制には意義がある、強みがある。魅力がある。しかしそれは劇場と市民の密接な関係があってようやく成立しているように、ベルリンにいた私には感じられた。作家たちは末端でしかないが、クライアントやプロデューサー、文化行政関係者らのようにグローバルとローカルを混同するなかで、どうにか自らの道を見つけねばならない。経済的かつ芸術的な責任を負わされるのは結局作家たちで、彼らはどうなろうと無傷であり、お仲間に守ってもらえる。このような欺瞞からの出口を見つけたいと思う。