【ドイツ 演劇】Hamlet(シェイクスピア『ハムレット』、トーマス・オスターマイアー演出)――2024年11月14日 シャウビューネ劇場 Schaubühne

アリストテレス、寅さん、悲劇の転回

演出:Thomas Ostermeier トーマス・オスターマイアー
ドイツ語・ドラマトゥルク:Marius von Mayenbur マリウス・フォン・マイエンブルク
観劇日:2024年11月14日
初演日:2008年9月17日
上演時間:2時間35分
座席:最前列シモテ4席目、9ユーロ(学生料金)、当時券購入

 当日券なんか日本でも並んだことはなかったが、わりといけるらしく一抹の希望を胸に1時間前にシャウビューネに到着。順番が来て無事最前列をゲットできた。しかし、自分より前に並んだ人々は皆最前列以外の席を選んでいた。もしかして、これは、と思ったが結果的には座席の位置は自分にとってそれほど問題ではなかった。

 とりあえず、劇場のカフェで開演までの1時間を潰す。コーヒーとパン二つにチップをつけて7ユーロちょい。まぁまぁやな。スープっぽいのもあった。次の機会に頼んでみよう。木曜日、平日の夜だというのに、劇場のカフェは週末の居酒屋みたいに賑わっている。空いている席がなくて、相席をお願いした。当日券の列で、前に並んでいたおじいさんに、「君、ハムレットは今回はじめてかい?」と聞かれ、ja! と答えた。本作は、2008年からやってるようなのだが、いつまでも観に来て、よいと評価された作品は「消費」しないんだなぁと思った。こういう部分は、「アメリカ的」ではないと感じる。

 自分なりのテキストレジをもとに『ファウスト』(それも、森鴎外訳で)を吉田寮でやってみたのが初の演出らしい演出であった。それからしばらく経ったのち、付け焼き刃ながらシェイクスピアも読んだ。『お國と五平』(谷崎作)の演出でもそう感じたが、現代人には理解し難い価値観のもと書かれた戯曲を演出するときには、絶対に発生する〈齟齬〉をどう埋めるのかが鍵となる。ただ真剣にやるのでは意味を持たせることはほぼ不可能といっていい。まじめに取り組んでしまった場合、すべては〈ブルジョアの戯れ〉に堕ちる。とはいえ、あまりパフォーマディヴにやりすぎると、それは〈アーティストの玩具〉でしかなくなり、『ハムレット』と銘打って事業を行うことへの道義的責任も問わねばならない。名作の陰に隠れて好き放題やる作家は唾棄すべき対象である、という過激な思想を私は持っている。

 しかし、本作のハムレットの人物描写の調合は絶妙だった。もちろん、冒頭の父の埋葬の場面の演出など、いくつかやや冗長に感じるところはあったのだが、中盤において観客に愛される楽しいハムレットが、やや面倒な存在に移行して見える流れは非常に鮮やかだった。

 著名な傑作悲劇の戯曲を、喜劇へと転回することが、極めて有効な手法であることは、すでに机上にて学んでいた。ところが、今までそのときに発生する物理的誤差をどのように処理するか、あまり見えていなかった。悲劇を喜劇に反転させたとき、鏡に映った他者を見るような違和感が随所に残る。そもそも全体として悲劇だったとしても、部分的にもともと喜劇的な個所が残るので、その場面をそのままにしてしまうと観客は「しつこい」と感じて、疲弊してしまう可能性がある。実際、笑いの量は徐々に少なくなっていったような気がする。しかし、「しつこい」観客へのアプローチ(例えば、DJを模したマイクパフォーマンス、客席に入り込むハムレット、客席に飛んでくる小道具などなど)は、「もういいよ」という感情を引き起こし、それはハムレット以外の人物の心情に接近する。最後のフェンシングの場面で足をひっかけたり、泥を顔になげつけたり、スコップを武器にしたり、そんな子供だましのようなズルをしたりすると、「ああ、いつまでそうしてるの」という雰囲気になる。

 寅さんは映画で観るから楽しいのであって、実際に彼のような人間が家族にいたら、本当にしんどいだろう。だから、そういう人を排除して、合理的で無駄のない社会形成が日本では積極的になされてきた。今、寅さんを「現実的に」受け入れる度量はこの国にはない。「悲劇はよりすぐれた人間を、喜劇はより劣った人間を再現する」とアリストテレスの『詩学』に書いてある(松本仁助・岡道男訳、岩波文庫、1997年、24頁)。とにかく今は自分だけはコメディアンにならずに済むように躍起である。やや脱線するが、日本で政治風刺の表現があまり流行らないのは、「政治状況が劣化しすぎて、それ以上劣ったさまを表現することが不可能だから」である。だから、文化・芸術による表現でどうにかできるものではなく、普通に正攻法で政治状況をよりマシなものにするしかない。今のリベラルには無理に決まっているけれども。

 さて、このハムレットの道化の「しつこさ」。終盤に向かうにつれて笑いながらも多くの観客がともに感じていたように思う。たぶん、何度も観ていて(初演は2008年9月17日)、とにかく好きな俳優のじたばたを楽しもうとしている観客も散見されたが、それでも、演出にそういう狙いがあったなら、それはかなり成功していたように感じる。ぜんぜん違うかったら悲しいけれども、まあ解釈は自由である。

 また、ハムレット役の俳優は、お腹がボテっとした肥満体質のようだったのだが、劇中劇をやるところで裸になったために実際はそういう体型ではなく、そう見えるよう服の下に(あれなんていうの?誰か教えて)お腹が膨らんだように見えるものを装着していることがわかった。日本では、どうしても蜷川幸雄演出の藤原竜也を想起してしまうのだが、こちらのハムレットはまったくシュッとしていない。舞台は土が敷き詰められていて時折水をまいたりするので俳優たちは泥だらけになるし、液体を使った演出も多数あった。また、はじめ横並び一列になってたぶん葬儀と婚儀における晩餐が描写されたのだが、これはレオナルド・ダ・ヴィンチのアレなのか・・・?とか思ったが、あまり気にしなくてよかったようだ。

 今回も映像演出あり。ハムレットがカメラを持って撮影した映像がその場で舞台に投射される。白黒になって拡張されるイメージはその事態の不穏さを表現するのに効果的である。詳しくないのでわからないが、カメラも、そのへんでパッと変えるようなものではなく、プロがロケで使うようなそこそこいいやつだと思われる。

 ラストシーン。ハムレットが取り残されるという演出はとてもよかった。英語字幕しかわからなくて無念だが、the rest ist silence で暗転はクールだった。昨日フェストシュピーレで観た、Verrückt nach Trost よりもセリフが聞き取りにくかったのが悔やしく、そういうことについても少し考えてみた。戯曲を改変しているとはいえ、そこは〈シェイクスピア〉、ということもあるだろう。また、Verrückt nach Trost に「英訳のタイトルをつけない」という、作家のドイツ語への強いこだわりが、聞き取りやすさにも幾分か影響しているのかもしれない。確かに自分がドイツの作家だったら、そんなに言語的に大きな落差があるわけでもないし(日本語に比べたらという意味)、英語訳「別によくね?」と言ってしまいそうだが、「いいや、ダメだ」と固辞する姿勢には好感がもてる。マネジメント側はたいへんだろうけれども。

 とりあえず、三か月のうちに、チェーホフ『かもめ』、シェイクスピア『ハムレット』、ジョージ・バーナード・ショー『ピグマリオン』、シラー『群盗』と、著名な古典傑作の演出が観劇できてよかった。イプセン『ペール・ギュント』も観たかったが叶わなかった。演出スタイルも、コンスタンティヴなものから、もはや政治性まる出しといっていいくらい実にパフォーマティヴなものまで色とりどりだった。たった三か月で、それもかなり安価に観られるのはベルリンという街の魅力だろう。語学学校や不慣れもあって、20作程度に留まってしまったが(まだあと最低2作は観る)、シャウビューネ、マクシム・ゴーリキー、フォルクスビューネ、ドイツ座、フェストシュピーレ、ベルリン・ドイツ・オペラに加え、パリのジェンヌヴィリエにも足を運び、記録も漏れなく書くことができた。シャウビューネ劇場には、下の階にロッカーがあって2ユーロコインがあるとコートを預けられるとか、トイレは両端に二か所とロッカーのあるフロア(端の一つはたぶん俳優も使ってる)、そういうほとんどの人々が記録しない細かい情報も残す。誰の役に立つか知らんけど。