劇団辞めてドイツ行く(18)生きねば…そもそも2025年を迎えられない――2024年9月23日

「生きねば:そもそも2025年を迎えられない」

 11月23日には住む場所がなくなり、仕事も今のところないので、あまりよい状況とは言えない。たしかにドイツ語の力は伸びているが、必要なレベルに達しない。あるのは11月25日の日本へ帰る航空券くらいである(日程変更可のオプション付)。日本に戻っても帰るところがないのだが。いずれにしても12月からは働かなければならない。日本なら1年近く無職でいられるだけのお金があったのだが、すべてこの3か月に投じてしまったわけである。無理して働くこともない、と今は思っているのだが、どうにかして生きねば。

 リルケ『マルテの手記』が何か勇気づけてくれるかもしれないと思って、岩波の文庫本を持って飛行機に乗り込んだのだが、紛失してしまった。もう取りに行くのもめんどくさいので、イヤホンの左耳同様に放置することにした。

こうして人々は生きるためにこの都会へ集まって来るのだが、僕にはそれがここで死ぬためのように考えられる。(望月市恵訳『マルテの手記』岩波文庫)

 リルケが、パリで孤独に過ごすなかで、見たものから徐々に郷愁に浸る。同『若き詩人への手紙』の一文がまた思い出される。

創作する者にとっては貧困というものはなく、貧しい取るに足らぬ場所というものもないからです。そしてたとえあなたが牢獄に囚われの身となっていようと、壁に遮られて世の物音が何一つあなたの感覚にまで達しないとしても――それでもあなたにはまだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか。

 映画『ベルリン:天使の詩』は、『ドゥイノの悲歌』が着想のきっかけになっているらしいが、冒頭の図書館のシーンは、『マルテの手記』の、パリの国立国会図書館でフランス人ではないという自覚とともに詩を読む描写と重なるように感じられる。

 そういえば、『マルテの手記』ドイツ語なので、今の自分にも読めるはずである。冒頭くらい見てみようと思ったが、結構苦戦した。

So, also hierher kommen die Leute, um zu leben, ich würde eher meinen, es stürbe sich hier. Ich bin ausgewesen. Ich habe gesehen: Hospitäler.

こうして人々は生きるためにこの都会へ集まって来るのだが、僕にはそれがここで死ぬためのように考えられる。僕は外出して来た。そしていくつもの病院を見た。(望月市恵訳)

一體、此處へは人々は生きるためにやつて來るのだらうか? 寧ろ、此處は死場所なのだと思つた方がよくはないのか知らん? 私はいま其處から追ひ出されてきた。私はいくつも病院を見た。(堀辰雄訳)

 青空文庫から堀辰雄による同じ個所の翻訳を引っ張り出して読み比べてみる。

 1文目、堀辰雄はかなり意訳していて、1文につき1文で翻訳するということもしていない。「So, also」をもっと厳密に行くとしたら、「そうだ、それで」といったところだろうか。alsoを辞書で確認すると、先行する内容を受けいなければならない副詞である。堀辰雄は、これが1ページ目にあるということの意味を取っていない。その意味とは、このテキスト全体が断片的であるということである。何か前の情報が存在しているのにそれが抜けているということが「手記」の仕組みを読者にはじめに示すためにはかなり重要なのではないだろうか。

 ただし、望月訳にある「都会」と直結する単語は少なくとも文中には一つもなく、hier を「此處」と訳し続けている堀のほうがここでは原文に忠実と考えられるだろう。またeher (より好んで、むしろ、いっそ)を汲んでいるのも堀訳である。

 2文目の「追い出されてきた」/「外出してきた」は意見が分かれるところかもしれない。Ich bin ausgewesen は今はあまりしない言い回しらしい。 Ich bin ausgegangen というのが現代のドイツ語のよくある表現らしい。gewesen は sein 「…である」の過去分詞である。aus は、多くの場面で、「…から」と訳される。ベルリンに来てから、何度も Ich komme aus Japan と言った。これが受動態である点をとらえているのは、「追い出されてきた」という訳のほうである。「外出してきた」では、自発的に出たというイメージにもなりうる。リルケがパリで孤独であって、鬱屈とした日々を過ごしていることを正確に捉えているのは、「追い出されてきた」のほうだと思う。

 最後の Hospitäler は、単純にHospital の複数形なのだが、いずれも「いくつもの」という表現を加えている。これはこの後に続く描写を意識して、「いくつもの」と数が多いということを強調しているのだろう。単語それ自体が変化して、複数形になるというのは日本語には本来あまりない感覚である。こう訳さざるを得ないということなのだろうか。

 まったくドイツ語ができるようになる気がしない。こういう短い文でも、スッと入ってこない。土曜日の観劇では英語もドイツ語もてんでダメだった。統一された言語として入ってこない。クラスメイトとの雑談もままならない。3週間でこれか。。。