なぜいつもランタイムは書かれていないのか:責任は観客にある

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なかなか発表されない上演時間/ランタイム

 観劇するとき、上演時間がどれくらいになるのか、書かれていないことがよくある。それは、公演の規模の大小を問わない。暇ではない日本人たちにとって、これはたいへん不親切であり、演劇界全体が、新規顧客を開拓するつもりがないものと受け取られても仕方のない状況である。時折、これに対する愚痴がエックスに書かれたりするが、一向に改善の兆候はない。

 ただ、まあ原因はおそらくハッキリしていて、ひとことでいえば新作中心主義である。そしてそれを醸成しているのは、まぎれもなく観客である。あらゆる世代の多くの作家が自作の再演を望んでいるのだが、再演では集客が難しいということが常識的に知られている。

なかなか求められない再演/レパートリー制

 新作だと、予めランタイム/上演時間を発表することができない。もちろん、例えば「2時間」とはじめから決めておいて、そこに合わせていくというスタイルもなくはないかもしれないけれども、これだと作家を尊重していないと思われるだろう。

 いろいろ出来上がってきて、ランスルーをやってみて、ようやくランタイム/上演時間が見えてくる。公演の内情はさまざまで、遅筆の作家だと、小屋入り直前にようやく「最後まで書けて」、俳優・スタッフともどもはじめて全体像を見るのが本番一週間前などということはプロ・アマ問わず、ありふれたことである。

 レパートリー制のような「完全な再演」であれば、そのようなことは少なくなる。もちろん、絶対ということはないが、2時間の演劇ならば、伸びるとしても10分程度だろう。ただ、多くの作家や劇場が、再演だとか、レパートリーだとかいったことを試みているけれども、なかなか定着することはなさそうである。

新作至上主義

 「東京は世界で最も新作上演の数が多い都市」らしい。どうして、日本でこれほどまでに新作が求められるのか、その理由は私にはわからない。いずれにしても、新作を求める限り、ランタイム/上演時間が早めに発表されるという環境は生まれにくいということを観客は理解しておく必要がある。

 新作が求められるから、劇作家・演出家・俳優・スタッフの仕事があるという見方もあるだろう。しかし、再演でも彼らの仕事はある。一つ一つの作品の生きが長いほうが、作品ごとの質はよくなる。人にもおススメしやすくなる。いちどつくった作品を、〈消耗品〉と思うか、〈文化的資産〉と捉えるかどうかの違いなのかもしれないという話は、ベルリン滞在中よくした。ただ、ベルリンで最後に観劇した、シャウビューネ劇場のロベール・ルパージュ『信仰、金、戦争、そして愛』はHP上の上演時間が285分で、それがさらに20分以上伸びていたので、あまりアテにならないのかもしれない。

同じ戯曲でも1時間の差がある

 三島由紀夫の『わが友ヒットラー』を上演したとき、ある劇評家に案内を送ったら上演時間は、「この戯曲ですと、3時間ほどでしょうか…」と聞かれた。そのときこちらはすでに通しを経ていて、2時間前後を見込んでいた。1時間の差である。劇評家なので、当然「この戯曲ならこれくらい」というのは、確かな感覚なのだろう。ふつうよりはかなりテンポよくセリフを読んでもらっていたつもりではあったけれども、著作権事務所とのやりとりで、ノーカット上演でなければならないのに、やり忘れたシーンがあるのかと思い、焦って他の版を確認したりした。どこも忘れておらず、ただめちゃくちゃ早かっただけのようで、ホッとした。

 2025年12月に演出する『桜の園』は、そして、2時間程度である。全員の調子がよければひょっとすると2時間を切るかもしれない。今回は、パブリックドメイン化された神西清先生の訳に甘え、諸般の事情により、また演出の都合により、全体の輪郭を守りつつ、一部カットした(フランス語やドイツ語を増やしているけれども)。これが確かな形で見えてくるのも、ここ最近のことに過ぎない。『桜の園』は、ノーカットでじっくり上演するなら、3時間を超えることもある。ランタイム/上演時間もさることながら、たいへん見やすいつくりにもなっているので、お時間あればぜひご来場いただきたいと思う。

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