【ドイツ 演劇】Peer Gynt(H.イプセン原作『ペール・ギュント』)――2025年7月14日 シャウビューネ劇場 Schaubühne
原作:ヘンリック・イプセン
Ein Taten-Drang-Drama von John Bock und Lars Eidinger
観劇日:2025年7月14日
初演日:2020年2月20日
Ich biiiiin!!!!! Das iiiiist!!!!! die Wahrheit!!!!!!!
正直、1ミリもわけがわからず、このセリフしか覚えていない。しかし、確認してみると、このセリフ、ちゃんとペール・ギュントのドイツ語版にあった。「私はあああ! これがあああ 真実だあああ」という意味である。AIに意味を訪ねてみたが、「文法上は正しくないです」とだけ指摘された。イプセンは『人形の家』とかはもちろん、何度も読んでいたのだけれども、『ペール・ギュント』は読んでなかった。とりあえず wiki であらすじだけ読んでおいたが、あまり意味がなかったのかもしれない。『人形の家』は構造として、近代演劇に大きな影響を与えていることはわざわざ言うまでもないが、少なくともそのような作品ではなさそうな『ペール・ギュント』を読むことで、またイプセンを別の視点で読めるようになるかもしれない。たぶん『ペール・ギュント』は書籍を持っていない。
出演のラース・アイディンガーは、個人的にはオスターマイヤー演出『ハムレット』でも怪演が印象深い。『ハムレット』の客席と同様、アイディンガーのファンが結構いるのを感じる。オスターマイヤーの演出で彼はあんな感じになっているのだと思っていたが、そもそも彼があんな感じだったことが今回確認された。もしかするとたまたま二作同じ感じだっただけなのかもしれない。映画など他の出演作も観てみたい。
私は、シモテ端の最前列だった。花道がある形式なので、アイディンガーが花道や客席の方に向かうと何も見えなくなった。今回は後ろの方が見やすかったのかもしれない。ここまで観て来て、どの演出家や俳優が、よく脱ぐのか、あるいは脱がないのかわかってくるようになった。契約上の決まりとかあるのだろうか。そして、ラース・アイディンガーはたぶんよく脱ぐほうの俳優である。今回はひどかった(悪い意味では言っていない)。手持ちのカメラがあって、それが口に入っていく。映像はカミテ上方に投射されているのだが、口から身体に入って、出口がなぜか女性器になる。女性器からカメラが出て行くと、3Pのポルノ映像が流れる。シモテのほうにグリーンバックがある。アイディンガーが全裸になって、グリーンバックの前に立つと、ポルノに参加しているみたいになる。マジで下らねえ(悪い意味では言っていない)。最初に女性器がデカデカと映し出されたあとから、なぜかポルノにはモザイクがかかっていた。目の前のアイディンガーは当然、モザイクなしである。
アイディンガーの奔放さ(舞台上で少なくともそう見える)について、これがどのように実現されているのか関心が沸いた。しかし、これは彼の今までを劇場で観てきた人にしかわからない部分が大きいのかもしれない。もし今、何らかの新作の稽古場に入ることができたとしても、彼の存在は所与のものとして考えざるをえないだろう。そう考えると、彼のファンが客席にたくさんいることにもうなずける。
ところで、客席の誰もが、本作に立ち会う前から『ペール・ギュント』を共有できていたのだろうか。お馴染みの『ペール・ギュント』があって、そのうえで観劇したという人が、シャウビューネの客席にはいつもどれくらいいるのだろうか。これでなくても、ギリシャ悲劇とかシェイクスピアとか、いろいろな「古典」の演出作を観劇してきたが、すべてを読んだことがあるという状態では私は観劇することができなかった。ある程度、読み込んだことがあるもののほうが楽しめることは間違いがない。言葉が部分的にしかわからなくても、オースターマイアー演出の『ハムレット』が面白かったのは、何度も読んだり人と感想を言いあったりしたことがあるからである。どれだけパフォーマティヴに演出されていたとしても、自分なりの「ハムレット観」があるくらいの状態でいるほうが確実に楽しむことができる。この差については、もう少し検討したほうがいいのかもしれない。ふつうに考えるなら、ある程度客席の知的レベルが限定されているということになるのだが、果たしてほんとうにそうなのだろうか。はじめから疑問を抱いていたことであるが、もうそろそろ考えるには限度がある。事実を確認できる機会を持ちたいと思った。