【ドイツ 演劇】Linkerhand(フランツィスカ・リンカーハント原作、セバスチャン・バウムカルテン演出『リンカーハント』)――2025年6月16日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater
原作小説:フランツィスカ・リンカーハント
演出:セバスチャン・バウムカルテン
観劇日:2025年6月16日
初演日:2024年10月18日
今回もまた伝記ものだった。「自身の半生を語る」とか、いわゆる「半自伝的小説」といったものを演劇化するというスタイルはかなり確立されたもののようである。2025年のテアタートレッフェンに選ばれたゴーリキー劇場の作品、Unser Deutschlandmärchen も 半自伝的小説をもとにした演劇で、振り返ってみれば、特筆してゴーリキー劇場にこのような作品の上演が多いのかもしれない。たしかに、ベルリナーアンサンブル、ドイツ座では、「戯曲を演出家による解釈を施して上演する」というオールドスクールなスタイルを守っているような作品をよく観た。一方、「移民と(彼らの)個人史」という方針がゴーリキー劇場のプログラムでは際立ってくる。ある日。 エルンスト・ブッシュ演劇学校のオープンデイなどで „Romane auf der Bühne“ という書物を何度か見かけた。直訳すると「舞台上の小説」で、出版社(Narr Francke Attempto Verlag)のウェブサイトを確認してみると、 小説の(演)劇化(Dramatisieren eines Romans)とあり、こうした翻案ものがなぜ1990年代から増加しているのかという問いを立てていることがわかる。著者は、ビルテ・リピンスキ(Birte Lipinski)。値段が78ユーロ(13,000円)もするので購入はできなかったが、このような本が出版される時点で、ある程度、「小説の演劇化」が、ドイツの演劇界において重大なテーマ、あるいはトレンドであることがわかる。日本においても、2.5次元舞台が規模を拡大させて久しいのだけれども、現場レベルでの洗練があったとしても、それを外から学術的に確認するのは難しい。文化論的な検討は検索すれば出てくる一方で(須川亜紀子『**2**.5次元文化論 舞台・キャラクター・ファンダム』)、その創作手法の学術的検討があまり見られないのは不自然な現象である。いちばん簡単に読める文献といえば、青空文庫にも入っている、芥川龍之介「小説の戯曲化」で、非常に短い文章で、そのうちの半分近くは「売文に関する法律は不備を極めてゐる」について書かれたものである。この状況には、「映画・テレビ・舞台で、好きな漫画原作をめちゃくちゃにされてきたオタクたちの憎悪」、「その憎悪を、作品を見ずに、演者しか見ない観客に向けること」、「少なくとも結果的に原作を大切できなくなりがちなシステム」、「主にインテリ層で構成される現代演劇の担い手たちおよび研究者による興行的成功に対する嫉妬」「その嫉妬のために価値判断、検証することなく、演劇史上存在しないかのように無視すること」云々、日本のカルチャーが持つ醜悪さが詰まっているような気がする。けれども、さすがに本作には関係なさすぎるのでこの話は脇に置こう。
3人の同じボーダーの服を着た女性が三人いる。もうこの時点で誰にだって、Linkerhand の人生をこの三人で分けてやりますということは明らかである。人物の名前は、フランツィスカ・リンカーハント(Franziska Linkerhand)。同名の小説の主人公である。海外の小説はタイトルがまだ人物名だけだとか、日本の感覚でいると非常に味気ないように思う。異世界系のラノベは長いタイトルの典型だけれども、芥川賞・直木賞の過去受賞作リストを見るだけでも、タイトルそれ自体が〈詩〉と捉えられるほどに、背表紙に文学をふんだんに押し込もうという気概が感じられる。小説 Franziska Linkerhand の出版は、1974年出版だが、近い年代の日本の著名な作には『限りなく透明に近いブルー』がある。私の知識不足と言われればそれまでなのかもしれないのだけれども、観劇スケジュールを組もうというときに、あまりタイトルで惹かれるようなものが多くないのは個人的な事実である。この点についてはまた日独の著名な演劇や小説のタイトルをもっと広く確認しながら、今後検討してみたい。先日のヤスミナ・レザ作品のように、どうして、邦題はいつも激ダサになるのかということへの検証も併せると、見えてくるものがあるだろう。今思い出したが、ポレシュの ja nichts ist ok(『ああ、何も大丈夫じゃない』) は目を引くタイトルである。ドイツ座で観劇した、イェリネクの Angabe der Person (『その人の陳述』)はどちらかといえば、味気ないほうに入る。リーディングの試験で下線が引かれ、この意味を答えよという問題が出てきそうな印象である。
この小説は、作者ブリギッテ・ライマン Brigitte Reimann (1933-1973)の強い自伝的要素が含まれており、1960年代の東ドイツの状況を、ありありと書き記しているらしい。作者は、この作品の執筆に20年かけ、最後の10年はこの作品の執筆に捧げたが、それでも未完とのこと。日本語訳はなさそうである。読もうと思うなら、ドイツ語を読むしかない。フランツィスカは「女性の」建築家である。舞台に吊られた家は、彼女の生活・仕事と当時の東ドイツの様子の不安定さを示しているように感じられた。家には、建築現場の映像が投射される。この美術の雰囲気は、そのままオストクロイツあたりでまだ見ることができる。いわゆるフリードリヒスハイン Friedrichshain のエリアだろうか。シュプレー川の向こうに、旧・西ドイツの最果ての地、クロイツベルクがある。オストバンホフ駅、ワルシャワ・シュトラーセ駅そしてオストクロイツ駅の周辺には、映画で観たような光景がまだ広がっている。
3人の女性が、同じボーダーのシャツに、赤いコートを観にまとっている。しかし、ボーダーの色がそれぞれ異なる。おそらくこれは隠しきれない内面の変化ということだろう。強い男性中心主義的社会のなかで、「私はどう生きるべきか」に葛藤する。社会主義思想は、日本においてはインテリの頭のなかにしかなかった。しかし、旧・東ドイツでは現実として存在した。思想が社会において実行されうるほどに力を持った。旧・西ドイツ側とでは、いまだに街の風景が変わる。だから、このリアリティは私にはわからないのかもしれない。しかし、ゴーリキー劇場の観客は自分と同じくらいの年齢の者が多いように思える。つまり、彼らにとってもこのリアリティは薄れつつあるものなのかもしれない、ということである。AI生成で作られたような動画のなかで、待ちゆく人がしゃべり出す。この演出は面白かったが、ところどころ、時間を追ってゆくなかで、傍白とストップモーションの組み合わせの演出があって、これには閉口してしまった。ナラティヴな作品であるならばよく出てくる手法であるが、やや幼稚に見える。いやな言い方をするなら、「学生劇団がやりそう」である。ゴーリキー劇場ではよくこういう演出を観る。他の劇場ならあまりやらなさそうな、こういう演出をするところが、(あくまで比較的だが)若い層に支持されている理由なのかもしれない。そんなことを思っていても、「また通いたいなあ」と思って私は一人で劇場を後にした。終演後21時を回っているのに、まだベルリンは明るかった。しかしマチネではない。不思議な感覚である。
参考:
https://de.wikipedia.org/wiki/Franziska_Linkerhand
https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/record/17774/files/hayashi-030206lib-chukyo.pdf