【ドイツ 演劇】Faust I & II(ゲーテ作/ニコラス・シュテーマン演出『ファウスト』)――2025年6月9日 タリア劇場 Thalia Theater
作:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
演出:ニコラス・シュテーマン Nicolas Stemann
観劇日:2025年6月9日
初演日①:2011年6月28日(Salzburg Festspiele)
初演日②:2011年9月30日(Thalia Theater)
日本公演:2014年4月26日~27日(静岡芸術劇場) ※第一部のみ
長いドイツ滞在も、残り2か月を切っていた。金銭事情がきつくなってきて、観劇本数を絞らなければならない。しかし、ハンブルクで『ファウスト』をやる、それも原サチ子さん出演で、自分が数少ない「聞いたことのある」シュテーマン演出ということで、ベルリンから向かうことにした。
ベルリン中央駅からハンブルク中央駅へ行くのはそれほど難しくない。フリックスバスなら、3時間~4時間半、時期にもよるが、安いときで11ユーロ、高くても15ユーロ程度である。試しにICEを検索してみると、こちらは2時間半で往復70ユーロ程度で済む。フリックスバスも、ICEも、時間によって料金が変動するのでしっかり選び、結果的に交通費は、ICE往復72ユーロとなった。タリア劇場は、ハンブルク中央駅から歩いてすぐである。2時間程度の演劇なら日帰りもできるのだが、14時開演で、上演時間が8時間あるということで、観光も兼ねて1泊することにした。宿泊費は、8人部屋のドミトリーで、1泊25ユーロであった。もともと足とアゴで120ユーロの予算を設定していたが、結果的に72ユーロと50ユーロ近く浮き、金銭的にはよい選択をした(なお、ドミトリーは同室者に恵まれなかった)。
細かい話だが、初演日については表記ゆれがあって少し混乱した。2011年ということは確かなのだが、ザルツブルク音楽祭の初演について、タリア劇場の公式Youtubeでは、2011年7月28日(28. Juli 2011)と書かれてあり、寺尾(2018)には、2011年6月28日と本文に書いたあとに、註の欄で、2001年6月28日とある。Nachtkritik の記事(2010年)には、2011年8月と10月に初演の「予定」と書かれている。静岡では、第一部のみ上演ということからもわかるように、大所帯で、そう簡単にあちこちで全編上演というわけにはいかないのだろう。ここでは全編、あそこでは第一部というように、足跡を確かめるのがやや煩雑になっている。なお、2010年のNachtkritik の記事は、「公開リハーサル」(eine Öffentlichen Probe)についてのものである。同作は、テアタートレッフェン2012に招聘されていて、すでにリンク切れになってしまった Thalia Theater の公演ページの代わりに情報を確かめることができる。ここでは、2011年7月28日にザルツブルク、2011年9月30日にタリア劇場でそれぞれ初演とある。おそらくこれが最も正確な記述だろう。
「ドイツ人が読むべき本は、この世に二冊しかない。聖書と『ファウスト』である」。そういう言葉を聞いたことがある。聖書は新訳のことだろう。誰が言ったのか、正確なことは知らないけれども、少なくともそれだけドイツ文化にとって重要な作品であるということがわかる。YouTube に11時間半の『ファウスト』上演映像がある。こちらはペーター・シュタイン Peter Stein 演出、日本ではネット・ミームでお馴染みのブルーノ・ガンツがファウスト役を演じている。こちらの『ファウスト』はかなり原作に忠実らしく、魔女はすごい魔女っぽいし、ちゃんと若返るし、マルガレーテは着替えながらトゥーレの王 Der König in Thule を歌う。日本では、森鷗外の名訳があるのと、手塚治虫による漫画版が『ネオ・ファウスト』などを含め3つほど世に出ておりアニメ化もされている。私は今のところ、日本の『ファウスト』では、この二人の手による『ファウスト』にしか関心がない。
ドイツ文学といえば、ゲーテ・インスティテュートとか、ゲーテ試験とか言うくらいなのだから、ゲーテだろうというふうに思っていたのだが、この観劇までは、ゲーテよりもシラーのほうがドイツの劇場で見聞きする機会が多かった。いずれもゴーリキー劇場だったが、レオニー・ベーム演出の Die Räuberinnen(群盗 Die Räuber の 女性形)は、シラー『群盗』にフェミニズムをぶっこんだ作品をやっていて、ヌルカン・エアプラート演出の『狂気の血』Verrücktes Blut では、教師が銃口を向けながら生徒にシラーを読み上げさせる場面があった。シラーをもっと読んでおくべきだったのかと思っていたところに、ようやく初ゲーテとなった。
舞台上には、字幕があって、そこに 3. Prolog in Himmel などと、現在の場が書いてあって、わかりやすくなっている。舞台はペーター・シュタインのものとは違って、建てこんでいるわけではない。広い舞台に、いくつかものがあるだけ、というような印象である。はじめに、演出家のシュテーマンが登場して、「前口上」を述べる。有名な冒頭の「めっちゃ勉強したのに全然賢くなってへんやないか」のセリフまでは原作でもかなり時間があって、「薦める詞」にはじまって「舞台上での前戯」、「天上の序言」(メフィストフェレスと主の対話)と続いて、ようやくファウストの話がはじまる。シュテーマンが去ったあとに、本を読むファウストなのだが、ここで本が自分でしゃべるというところがある。手に持った本をパカパカさせるというただそれだけなのだけれども、それを破り捨てたりするところで、いわゆる本作での「知性」の取り扱い、あるいは「知性」に対する姿勢というものがわかるようになっている。気楽に見ようという感じで、観客の雰囲気も同じような印象である。
じつは今回が レツテン・マール (Letzten Mal / 最後)ということだった。レパートリーといっても、永遠に上演されるというわけではなく、最後ということになった場合は劇場のHPなどに、Letzten Mal と注意書きが入る。観客の多くが恐らく私のように今回初めてというわけではなく、昔からこの『ファウスト』にずっと親しんできたという空気だった。
第一部で、興味深かったのは小道具の扱いだった。例えば、シモテの奥のほうから机をひきずりながら持ってくる。その時間は非常にダラダラしており、ひきずるときに発する「ギィーーーっ」という音をみんなで共有することになる。それはもはや楽器のようだった。それ以外にも物を置いたりする場面で、「ままならまさ」を意識させるような瞬間が何度もあった。この演出は、徹底管理型の演出だと生成がほぼ不可能である。演出と俳優の信頼関係だけでなく、舞台に置きたい身体感覚が二者のあいだである程度一致していなければ実現するのが難しい。
本作のようにドイツの俳優を観ていると、舞台上でどのように立つかということが一任されているとしか思えない瞬間が多い。例えば、走りまわったり、駆けまわったりするときに発生しうる「ゆらぎ」がある。それは優劣ではなく違いに過ぎないと思うのだが、このゆらぎを極限まで小さくすることが日本では良しとされているように思え、その一方でドイツでは客席の状況に合わせて俳優が柔軟に調整しているように感じられる。どこまで現代の日本の演劇に、実際の影響を及ぼしているのかは定かではないが、想像を絶する正確さが求められる能舞台などは、日本の舞台のあり方の典型といえるのかもしれない。ドイツでこれまで観てきた演劇では、今日の観客に合わせて調整している割合が非常に大きいと思う。レパートリー制で最も得をするのは、場数を踏める俳優だという話を聞いたのだけれども、確かにたくさん数を重ねなければ得られない感覚である。ただし、これは完全に私見だけれども、客席の雰囲気を読むということについては、ドイツよりも日本の観客のほうが繊細で難しいと思う。日本の観客のほうがおそらく熱しにくく、冷めやすい。
はじめ美術について「いくつかものがあるだけ」と言ったけれども、とくに第二部に入ってからはどんどん派手になっていく。Faust が想像させる世界が広がっていくのと呼応しているかのようである。トーマス・オスターマイアー演出の『民衆の敵』(Ein Volksfeind)のように、ゴンドラに乗って背後の壁一面をペンキで塗る演出や、人形(舞台用語)で立っていることが明らかな「ハリボテの都市」、その背後に闊歩する巨大な骸骨が映像に投射されたりする。
シュテーマンは、ホテルでピアニストの仕事をやっていたこともあるらしく、音楽演奏の場面で頻繁に登場する。劇詩というだけあって、音楽は重要な要素であるが、音楽がややゼロ年代を感じさせるところがあった。2011年初演というだけあって、きちんと古くなっているのだろう。この音楽も相まって、まだ先進諸国が気楽でいられた時代精神 Zeitgeist が劇場を包む。 観客たちは、子や孫がどうしてAfD支持に回るのかわからない層であり、世代なのかもしれない。レパートリー制によって、こういうことも確かめることができる。最後は、Zieht uns hinan (我等を引きて往かしむ)という原作でも最後の詩を歌にしてみんなで合唱するというものなのだが、この手前に、Das Ewig-Weibliche(永遠に女性なるもの)という問題の主語がある。鷗外訳でこのラストを読んだとき、「これだけいろいろあって、最後、女かよ」とかなりがっかりした。この部分をどのように処理するかについて考えたときには、他者を捨てて、梵我一如に至るしかないと思った。文学的に正しくても、それが演劇的に優れているとは限らない。みんなて集まって合唱というのは、この作品では正しかったと思うが、今差し迫るものを考えたときに、また別の『ファウスト』を観たい。
参考: