【ドイツ 演劇】Drei Mal Leben(ヤスミナ・レザ Yasmina Reza『人生の三つのヴァージョン』)――2025年5月24日 ベルリナー・アンサンブル Berliner Ensemble
作:ヤスミナ・レザ Yasmina Reza
演出:アンドレア・ブレート Andrea Breth
会場:ベルリナー・アンサンブル(Großes Haus)
観劇日:2025年5月24日
初演日:2020年1月16日
Drei Mal は、「3回」、Leben は Life の意味なのだが、「三回目の人生」とか、そういうことだと思っていたが、フランス語の原題は Trois versions de la vie とあって、タイトルの初見の印象とはあまり一致しない。einmal は「一度」、zweimal は「二度」で、nochmal は「もう一度」とよく聴く単語なので、あまり深く考えず、そういうものだと思っていた。「ヴァージョン」と「マール」は同じではない。試しに、AIで、Trois version de la vie を翻訳させてみると、Drei Versionen des Lebens と訳出してきた。ドイツ語でも、Version はそのまま女性名詞として使われるようである。
もう少しAIと対話してみる。mal と version の違いを教えて。
mal(マール):
- 数詞と組み合わせて回数を表す副詞として使われます(einmal=1回、zweimal=2回、dreimal=3回など)
- 繰り返しや頻度を示す表現に使用されます
- 文脈によっては「~回目」という意味にもなります
Version(ヴァージョン):
- 女性名詞で、何かの「バージョン」「版」「解釈」を意味します
- 同じ内容の異なる形態や表現方法を指します
- フランス語の「version」に由来し、ドイツ語でもそのまま使われています
この違いは、あなたが選択したテキストに関連する文脈でも見られます。「Drei Mal Leben」(3回の人生)というドイツ語タイトルは、フランス語原題「Trois versions de la vie」(人生の3つのバージョン)とは微妙にニュアンスが異なります。AIで翻訳すると「Drei Versionen des Lebens」となり、「mal」ではなく「Version」が使われることがわかります。
辞書も調べてみる。小文字の mal は副詞で、数式の「掛ける」という意味である。だから、Zwei mal drei ist sechs. (2×3 は6)である。das Mal で名詞になると、「回」「度」という意味である。口語では、Guck mal (見てごらん)とか、noch mal (もう一度)言うのが街で無限に聞こえてくる。少ししつこいが大事なことのような気がするので、Duden で die Version の項目を確認してみる。「複数の可能な表現、形態、デザイン形式の一つ」とあって、二つ目に、Übersetzung(翻訳)と書かれている。
つまり、Version だと、三つの可能性が並列されているように感じられるかもしれない。一方、mal には「繰り返される」というイメージがあると推察できる。ドイツ語で Version が十分通じるにもかかわらず、mal としたのは、この繰り返される(少なくとも舞台上では)という印象を強調したかったのかもしれない。なお、2019年のケラリーノ・サンドロヴィッチ演出のシス・カンパニー公演では、『LIFE LIFE LIFE~人生の3つのヴァージョン~』と、観に行く気が失せるような激ダサのタイトルだった。
ベルリナー・アンサンブルは、客席の豪勢さのわりに舞台がこじんまりして見えることがある。本作は、非常にシンプルな舞台、俳優もたったの四人、とくに象徴的な美術があるわけでもない。スナックとワイン片手に、二組の夫婦が話しているにすぎない。ストレート・プレイの範疇に入ると言っていいだろう。オリバー・フルリッチの作品などのように、会話よりも視覚的に見せようとする演出があると、ドイツ語がわかっていなくても、文脈が掴みやすいのだが、これだけがっつり会話劇になるとドイツ語がちゃんとわからないとお手上げである。ギリギリのC1ではとうてい太刀打ちできない。ただ、文字通り、三回繰り返し、少しずつ違うので、なんとか楽しむことはできた。夫婦(アンリ Henri とソーニャ Sonja )が二人で話しているところに、Finidori 夫妻が訪ねて来て、Henri が Katastrophe! と言う。この Katastrophe! という単語も、日常的に使われるということが住んでいてわかった。カタカナで「カタストロフ」というと、地球滅亡くらいの大災害をイメージしてしまうのだが、「サイアクだ!」とか「大変だ!」くらいのニュアンスで使うように思える。ベルリンでは、2025年の3月に毎週のように鉄道のストライキがあって、何一ついつも通り移動できないという時期があったのだが、そのときに「カタストロフやね」と言ったりしていた。電車やバスなどで、日常会話に耳を傾けていると聞こえてくることも多々ある。
Guck mal !(カタカナ表記がある独和辞典だと「グック・マール」とあるが、ほぼ「コック・マール」に聞こえる) とか、Katastrophe! とか、よく使われる表現はわかるのだけれども、会話劇になるとリスニングの弱さが露呈する。俳優の動きや表情でわかる部分も多いのだけれども、自分が求めるレベルにはまったく達せていないことを認めねばならない。限定的な職種で働いたり、スーパーで買い物をしたりする分には問題がないのかもしれないのだけれども、演劇という自分の分野を考えた場合、学習の量だけでなく、質もこれに合わせたものを目指さねばならない。
じつは、もし観劇して気に入った演劇があれば、戯曲を買って、レパートリーなら何度も観劇してそれで勉強しようというふうに当初は考えていた。しかし、おそらく、ドイツでは日本よりも戯曲が売られていることは少ないように感じる。日本なら都会のある程度大きな書店にいけば、演劇コーナーがあって、現代の戯曲が置いてあるものだが、フリードリヒ通りの大型書店 DUSSMAN に行っても、日本の大手の書店より演劇書のコーナーは小さく、戯曲はほとんど置いていなかった。チェーホフやシェイクスピアは演劇コーナーではなく、古典コーナーにあった。劇場でもイェリネクはさすがに置いてあったが、そのレベルのものがぽつぽつあるだけで、「今日上演の戯曲」が置いてあることはあまりなかった。うまいことやって、人づてに上演台本を手に入れたりするしかない。レパートリーに入るくらいなのだから、劇場が出版を支援してもっと積極的に劇場で物販すれば儲かるような気がする。もちろん、置いてあることもあるのだが、それほど積極的なようには感じられなかった。
「戯曲を読む」ことを演劇を考えるときの中心に据えてきた身としてはこの状況はあまり好ましくない。論創社の『現代戯曲選』が例えば、すべて原文付きだったらよかったのだが、そんなわけもなく、どうにかして時間をかけて取り組んでいけるような資料を見つける必要がある。あるいは、自分のこの、〈テクスト中心主義〉的な考え方を改めるべき時期なのかもしれない。このままではこれ以上前に進めない気がする。