【ドイツ 演劇】Prozess(フランツ・カフカ原作、オリバー・フルリッチ企画『審判』)――2025年4月30日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater

企画:オリバー・フルリッチ Oliver Frljić
原作:フランツ・カフカ
観劇日:2025年4月30日
初演日:2024年9月21日

 クレジットには、Projekt von (英語なら A project by) とあり、演出(Regie)や作(von)といった記載がない。すでに観劇した『フランケンシュタイン』も同じくオリバー・フルリッチだが、「演出」ではなく、Projekt von である。「小説の演劇化」についての理論書をどこかのドイツの劇場で目にした。もちろん、珍しい手法ではない。しかし、近い時期に同じ手法で同じ作家が、二作ゴーリキー劇場でやっているということには何らかの意図があると思われる。そもそもフルリッチ Oliver Frljić は、2022年からマクシム・ゴーリキー劇場の共同芸術監督を務めている。

 オリバー・フルリッチは、1976年ボスニア・ヘルツェゴヴィナ生まれ。2014年から2016年まで、クロアチア国立劇場で芸術監督を務めたが、2016年初頭、クロアチアの文化政策に抗議して辞任したらしい(マクシム・ゴーリキー劇場ウェブサイト参照)。あるいは、ベルリナー・フェストシュピーレの紹介文にはこう書いてある。「特筆すべきは、リエカのクロアチア国立劇場の芸術総監督在任中、フルリッチは数多くの死の脅迫を受け、最終的にクロアチアからの亡命を余儀なくされたことである」――もう少し調べたいところだったが、いろいろ限界に突き当たってしまった。資料をオンライン以外から情報を集めることができない。多くのメディアは、どうしても彼の政治的振る舞いが気になるようである。ただし、過去の上演作の記録からして個人的に最も関心を惹かれた。日本語で彼の名前に触れられている記事はほぼ存在しなかった。フルリッチはある意味でヨーロッパのなかに強く政治的にも芸術的にもおそらく閉じられている。彼の作品の上演に対しては、抗議行動もあったりして、あるインタビューでは「もうクロアチアでは演劇ができません」と言っていた。

 『フランケンシュタイン』でも、原作者のマリー・シェリー自身が登場するが、『審判』でも終盤に、>>Ich bin Franz Kafka!<<(「私はフランツ・カフカ!」)とここでも本人が登場する。舞台上方から台とともに、「天から」降りてくる。全体としては、カフカ『審判』を追っているようだった。30歳の誕生日。突然、逮捕されるヨーゼフ・K(カー)。その理由はわからない。Das ist das Gesetzt. と言われるだけ。役人もほぼ同じである。以降は、なんとなく読んできた小説の流れに沿う。ユースティティアの像に首輪をつながれて最後に言うセリフも「犬のようだ!」である。また、今回も俳優が客席に進んでくる。ゴーリキーでは、俳優が客席に来ない作品を挙げるほうが難しい。もはや驚くに値しない。そうでもしない限り、作品の主題が自分たちの世界と地続きであるということを認識できないのかもしれない。

 繰り返し流れる、Alfred Schnittke: Clowns und Kinder(アルフレート・シュニトケの『道化師と子どもたち』)。この楽曲が作品の調子を規定する。また、シーンは『フランケンシュタイン』と同様に細切れにされている。ヨーゼフ・K以外の俳優は同じ服を着ていたりして、画一化への不安や奇妙さが示される。もしかすると、ここへの感覚も日本人とはだいぶ隔絶があるのかもしれない。学校から会社まで、制服が統一されていることがわれわれにとってはあまりに日常と化している。それほど高級志向ではないホテルなどの接客業でも服装規定、身だしなみの制約は厳しい。日本の外だと、人間の見た目が統一されることへの拒否反応が尋常ではないように感じられる。不気味な同じ表情のマスクをした人々。最後の場面では、Kは、その人々と同じストレートヘアーになるのも、こういう感覚から出たものなのかもしれない。

 カフカは『変身』しか読んでいない。3日前に観劇したベケットのことも思い返してみると、どうも「不条理」文学というものと相性が悪いらしい。演劇人コンクール2022で演出した安倍公房も、谷崎や三島のように楽しむことはできなかった。そこで、自分が持っている「不条理」へのイメージを確かめてみたい。はじめた頃は、「コミュニケーションが成立していないように見える会話劇」くらいに思っていたように記憶している。戯曲を書き始めてだいぶ経ってから、正確に「不条理」という語の意味を確認しようとした。カミュ『異邦人』を読んだのは、2017年6月と記録してある。この時期にはサルトル『嘔吐』も併せて読んでいるが、いずれにしてもメモ書きからして読み物として楽しんだ様子はない。おそらく今ベケットや別役を読んでも同じ感覚になるのだが、テキストに凹凸を感じ取ることができず、ただダラダラと文字を追うだけになってしまい、すぐに飽きてしまったことを思い出した。コンクールの課題戯曲が安倍公房の『鞄』だったので大急ぎで『砂の女』を読むこともあったが、何一つ面白いと思えなかった。

「不条理主義の人生のヴィジョンは、私たちは意味ある関係を何一つ持てない世界に生きているという信念を表現する。私たちは何も変えることはできないし、何も伝えることができない」。(ゴードン・ファレル(常田景子訳)『現代戯曲の設計』日本劇作家協会、2004年、102頁)

 根本的にはきっと自分は、このように考えていないのだろう。何かまだできることがあると思っているという楽観は、一方で不条理を生むような絶望の土壌を知らないということなのかもしれない。カミュとサルトルには一次大戦後のヨーロッパの、安倍公房や別役実には二次大戦後の日本の、それぞれの荒廃した世界や文化的、伝統的に根付きのない植民地生活などがあるのだとするならば、現代は、物質的な豊かさはあるし、私自身は数世代にわたってルーツを探ることもできる。ベルリンにいて、様々な絶望を感じることはあっても、それは確たる自分の文化があって、「別のもの」との衝突でしかない。何もかもが平たく均された世界観にはどうにも共感できないし、そういう世界の表現を文学として受容できないところがある。そういうわけで、本作には、個人的にも、社会的にも距離を感じてしまった。