劇団辞めてドイツ行く(52)C1(ツェー・アインツ)にきて、初心に帰る――2025年4月1日
C1のクラスがはじまった。まじでボキャブラリーないので何もついていけない。ある程度まとまった長さのテキストを日常的に読んで、そして訳してみたりしないと多分頭に入らない。文法はおまけみたいなものというか、日本の英語で言うところの〈分詞構文〉とかが出てくる。細かいニュアンスをつかむには、時間をかけて読んでいくなかで、日本語との距離を感じるしかない。観劇時も、例えば Angst のような基本的な単語が連続して出てくると、シーンの中心になっていることがわかるのだが、そこから広がる各登場人物の発言がつかめなかったりする。短文、単文しか理解したり、すぐに言ったりすることができない。現実として、手段、環境によってはB2レベルで充分だろう。「僕の職業ならB2で充分さ」と、ベラルーシからきたエンジニア志望の友人が言っていた。演劇を理解するためには、もうちょっとがんばったほうがよさそうである。
今日はクラスで、代名詞になると対格 Akkusativ と与格 Dativ の語順が入れ替わるということをやったのだが、なぜかこれは日本のドイツ語初級レベルのテキストにあった内容だった。どうやらちょっとした違いがあるらしい。聞いて、ノートして、alles klar! と言っておけばやり過ごせる時期は終わりつつある。進学を検討する他の生徒たちは、本格的に telc を意識しはじめ、先生も授業の照準をそこに合わせてくる。とりあえず帰国したら Goethe を受けてみようと思う。たしか帰国直後の8月。レベルはB2か、もし調子「に」乗っていたらC1にする。独検以外受けたことがないのだが、テスト対策はむしろベルリンにいたほうが選択肢は多い。
ところで、「調子に乗る」と「調子が乗る」でだいぶ意味が変わる。前者はどちらかといえばネガティヴな文脈で、後者はポジティヴな意味合いといったところだろうか。ここの投稿も誤字が毎回あって気がついたらその都度直している。日本語も難しい。前職の海外スタッフたち、みんな日本語検定1級だったのだがこれ乗り越えたのかよ。すげーな。リスニングですら長えーし、はぇーし、単語知らんのばっかやし、どうにもならん。
また、C1に入ると、Zitat (引用)が出てきて、これについて持論を展開せよという問いに挑まねばならないそう。今日は
Menschlichkeit hat keine Kurs an der Börse
August Bebel
というお題だった。捉え方によって訳し方も変わるが、超訳してもいいのなら「義理人情に株式相場なし」といわゆる清貧的な考え方で論を固めるだろう。こういう思考はドイツ独特なものなのだろうか。ニーチェの「アフォリズム」文体も想起される。そういえば2016年、故・市川明先生の講義「演劇学概論Ⅱ」(同志社大学の全学共通教養科目、他大学で言うところの一般教養にあたる)で突然こんな課題が出た。
ハイナー・ミュラー
作家は寓意よりも賢く、隠喩は作家よりも賢い。
これだけ述べて、そして「書きなさい」と付け加えただけだった。レジュメは全部pdfデータにしてクラウドに保管してあるのでドイツでも参照できる。そういえば、2回目の授業でいきなり指名されて、『賢者ナータン』の長台詞読んだな。はじめてちゃんと演劇を「学んだ」時間である。ベルリンへ行く前に一言ご挨拶を、と思っていた矢先のことだった。誰の下にもつかず、演劇をやってきたなかで、唯一「先生」と呼べる人なので、ほんとうにもたもたして申し訳ない。「ドイツに帰省する」という言い方をされていたので、きっと劇場のどこかにいらっしゃるのだろう。「コーヒー飲もか」ってまた言ってもらえへんかな。今のほうがあのときよりも、もっとたくさん、話したいこと、聞きたいことがある。
この課題、突然問われて、配られた紙に何を書いたのかもう全く覚えていない。中間・期末レポートはデータが残っていたので読み返してみたが、イキがって、ぜんぜん通読してもいないカントを引用していたりして、てかこれ何のための引用やねんと、9年越しに恥ずかしかった。カントはその後翻訳版とはいえ、ちゃんと『純粋理性批判』なども読破したし、いろいろ自分なりには成長した。また、結局根本的なところは変わっていないということも確認できた。ここがそうか、ドイツ演劇との出会いだったのか。ここまでほんと長かったんだな。