【ドイツ 演劇】1984(ジョージ・オーウェル原作、ルーク・パーシヴァル翻案『1984』)――2025年3月27日 ベルリナー・アンサンブル Berliner Ensemble

原作:ジョージ・オーウェル George Orwell
翻案・演出:Luk Perceval

初演日:2023年11月18日
観劇日:2025年3月27日
上演時間:2時間15分

 今年は公共交通機関のストライキが多すぎる。「やってまいりました、『毎週』恒例、ストライキのお時間です」くらいの頻度である。関西で言うと、JRはいつも遅れるので阪急に乗るみたいな感じで、U-Bahn の代わりに S-Bahn 中心の生活に切り替えつつある。今住んでいるポツダム広場周辺はベルリンで観劇生活を送るには、ベスト・ポジションといえる。HAUまでは南へ徒歩12分、西にいけばシャウビューネやフェストシュピーレ、フリードリヒ・シュトラーセ駅までは電車で5分、そこから10分前後の徒歩圏内にドイツ座、マクシム・ゴーリキー劇場、ベルリナー・アンサンブルがある。5月にはここから出なければならないのだが、とても名残惜しい。そんな場所なのに、お値段はとてもリーズナブルである。今後、同じような手段でベルリンに来るつもりの後輩がいるなら、自分と同じルートをおすすめできる。

 1984 は言わずと知れた、ジョージ・オーウェルの作である。原作を読んだことはないがあらすじだけは頭に入れている。ドイツらしい、観客に向かって開いた向きに置かれる三角形の鏡張りの舞台。これが回転する。ドイツらしいと言ってみたのは、アイナー・シュレーフ演出のファウストの美術を動画で観たのだが、それも三角形だったからである。三角形の内側に俳優がいて、不自然な抑揚で何かに操られたような話し方をする男性の俳優たち。みな一様に眼鏡で〈禿げ頭〉にグレーのスーツと、これも 典型的な「ドイツ人」のイメージと合致する。言うまでもなく、内向きの鏡は「相互監視社会」のメタファーだろう。これはあまりにもわかりやすい。しかし、35年前までベルリンにはこれが現実だった場所がある。女性たちがしばしば歌う。彼女らも、チャコールのコートで統一されている。「女は歌うことしか許されない」。当然、これも抑圧された社会状況を表したものとしてわかりやすい。

 1989年のベルリンの壁崩壊はおよそ35年前であるが、これは「まだ」ともいえるし「もう」ともいえる。今55歳の人々が、20歳のころに崩壊した。私の隣にはそれくらいの年齢のマダムが、親戚なのかはわからない、10代くらいの子どもたちを数人連れて来ていた。「なぜ見せたいのか」は明確なのかもしれない。今日は若い世代が非常に多かった。開演直前、場内スタッフがいつまでも座らない少年グループに「あの、ちょっと座ってくれます?」と声をかける場面もあった。休憩中、喫煙所に行くと学生グループのうちの一人が「ああ、なんかぜんぶはよくわからないなあ」と言っていた。世代間にリアリティの隔絶がある。しかし、彼らは同世代同士で議論しあったあと、また家族で議論をするのだろう。聞くところによると、若い世代ではAfD人気が急上昇中である。この観劇が何をもたらすのか。いや、何かを問いかけようとしているのは明白である。

 はじめ鏡張りの舞台のなかにいる俳優たちが不自然な抑揚で話し続ける。鏡のせいで、ただでさえ一様な俳優の容貌が、さらに増殖して見える。まったく聞き取れなくて、自信喪失したのだが、後半、つまり抑圧に抵抗する、あるいは情欲に身をまかせていく、『1984』の物語とともに、俳優のセリフは聞き取りやすくなっていく。畢竟これは私の中途半端なドイツ語理解がなせる業であるが、しかし俳優が演技にのせるものが「ことばの理解」を助ける役割を担っているということがわかる。また劇が進むと、舞台は回転するのだが、鏡張りの三角形の外側に俳優が立ち、演技する。鏡張りの外で、監視社会から逃れ、つかの間の自由が得られるのである。Freiheit! を叫ぶ男たち。そこに ジュリア(ドイツ語ではユリアと発音する)が盛大に転倒する。男たちは、

>>Bist du verletzt?<< 「あなたは怪我をしましたか?」

とジュリアに言うのだが、ものすごく不自然に聞こえる。一般的に言って、そこは>>Bist du Okay?<<「大丈夫ですか?」とか、>>Kann ich dir helfen?<<「手を貸しましょうか」とかではなかろうか。正直、まだドイツ語の理解度は劇を確かに理解するには遠く及ばないのだが、こういう不自然さが発語のうえでも、セリフのうえでも維持されていたことはなんとなく掴めた。そのほかのにも「2+2は4だ!」など、自明のはずのことが繰り返される。しかし、自明なことが自明と言えなかった現実が確かにかつてあって、ベルリンにはまだその残滓がある。日本人が感じられないリアリティがそこにあった。

 ベルリンでは、観劇後に誰かとそれについて議論しないと何の意味もないということが強く印象づけられる。ほとんどの作品が「政治性」を帯びている。いや、それ抜きには何も語ることができないとさえいえるだろう。少なくとも、これは私の思想と合致する。先生に聞いた話だが、ドイツ人はほんとうに子どもの頃から議論好きで、ギムナジウムでも質問が出まくるらしい。「これからギムナジウムでドイツ文学の授業をせなあかんねん。ドイツの子供ら、みんなめっちゃ手あげて質問してくるからたいへんやわ。フランスとか中国の子らはみんな静かで少なくとも教員にとっては楽」とのこと。フランス人なんかめちゃくちゃ質問してきそうなイメージだが、彼女の経験によるとそうらしい。劇場にはカフェやカンティーネがあって、みんな終演後もずっと話している。

 偏見だが日本では、趣味は孤独に嗜むものである。恋人に「趣味に突き合わせる」ということにはほとんどの場合、ネガティヴなイメージがつきまとう。仕事、趣味、家庭すべてが別の世界でなければならない。〈男性の趣味〉というのはとくにその傾向が強い。文化資本にまみれて生活する演劇関係者には想像もつかないかもしれないが、家庭に居場所がなく(「亭主元気で留守がいい」)、性風俗とギャンブル、仕事の話題しか話せず、年老いて残るのはギャンブルだけになる、という人生は少なくないだろう。右手が少し曲がりさえすれば〈遊戯〉できるパチンコ屋で、そんな目をしたご年配を無数に見てきた。ホテルでも、複数のご老人が、「喫煙所はどこですか」と「フロントスタッフである私に聞く」という行為すらできず、妻に聞いてもらうという状態で、驚くべきほどまでに低レベルな「社会性」しか持っていなかった。どちらがいい、悪いではない。あえて極端な部分を比較していることはわかっている。ベルリンの観客はどう見ても、ハイソな印象で、ある特定の層でしかないことは明らかである。短絡的に、ヨーロッパマンセー、ジャパンザンネン、なのでカイカクカイカク!と言うものに騙されてはいけない。いつだってコンサルをコンサルするコンサルのコンサルに紹介する人を紹介する人を紹介する人に、税金を知らず知らずのうちに中抜きされていくのが関の山である。ほんとうはもっと自らが属する社会をよく見て、観察し、判断しなければならない。これからも観劇を続け、「考えなければならない」。Denke an! というセリフもあったな、確か。