劇団辞めてドイツ行く(51)いま気になっていること/今後のこと――2025年3月29日

 4月になろうとしている。ドイツ語を鍛錬するのはいいとして、その先をそろそろ考えねばならない。もうこんな自由な、というかこんな無目的な形でベルリンにダラダラいられることは、この先の人生ではもうない。この現実が差し迫ってきた。

 観劇数は50作を超えつつあり、この調子で行けば帰国までに100作は到達できそうである。それだけでも十分価値のある1年だった。いや、価値のある1年にするのはこれからの自分の人生にかかっていると考えねばならない。12月の人間座での『桜の園』演出以外には何も決まっていない。ベルリンにいるせいであまり貢献できていないが、劇作家協会や京都舞台芸術協会など、作品の外側、創作環境だとか、〈公的な〉助成金だとか、自分の演劇活動は今、結果的にどちらかといえばそちらに偏っている。

 「お膳立てのための思想」。かねてよりそこが安定しなければ何もはじめられないと考えていた。もともと「やりたいことをやる」タイプではなく、「やるべきと思えることをやる」タイプなので、どの作品にも例外なく自分なりの〈社会的必要性〉を含ませてきた。〈芸術性〉は順位としてはその次である。だから、〈公的な〉助成金や補助金とは相性がいいはずなのだが、現実は異なる。どうやらコネクションというものが重視されるらしい。作品のあり方とは別に、うまく書類がかけるか、かけるものを雇うかのいずれかをしておけば、好きにやれるというのが現実らしい。20代のあいだ、誰にも敬意を払わず、誰の下にもつかなかったツケがここで効いてくる。これを補って余りある爆発的創造力は私にはなかった。それでも結局、助成金や補助金に与れなかったとしても、〈社会的必要性〉を原資として創作してきたスタイルから脱却することは容易ではない。

 日々通っているうちに、ベルリンの観客のことを考えるようになった。限られた数とはいえ、ベルリンの劇場に通うなかで、「この観客たちはいったいどこから来るのか」という疑問を抱きつつある。言うまでもないことだが、忘れられがちなこととして、演劇は少なくとも一人の観客がいないと成立しない。どの劇場でも客席を一見したところ、学生か、ホワイトカラー以上の層に限られているような印象がある。例えば、Berlin ist Kultur のデモのような劇場側のアクションに対して観客はどのような応答を示すのか。その背景は。観客はふだんどのような生活を送っているのか。そして彼らの生活のなかで演劇はどういう位置にあるのか。「文化芸術は人間を豊かにする」みたいな学部生のレポートのような答えではなく、リアリティのある答えを探したい。なぜなら、そこに日本での創作環境(私にとっては創作そのもの)を考えるヒントがあるからである。ドイツ人も日本人も同じ人間である。だからこそ、今自分が感じている「差」は何なのか。確かめたい。

 ベルリンの劇場もまた、AfDの台頭により、それを問われつつあるのだろう。だから、シャウビューネ劇場の「破産>>見通し<<」など、むしろ一挙手一投足に注目すべきときなのかもしれない。劇場側の反応はとてもわかりやすい。なぜならそれらの一部は必ず「リリース」されるからである。しかし、観客など受け手側がそれに対して何を思うのかは見えにくい。日本ならまだある程度Twitter(新X)で上澄みだけでも様子を確かめることができるのだが、ベルリンでは観劇後の感想ツイートなどは検索してもあまり観られない。たぶん、観劇直後に一緒に集まって議論するのが盛んで、Twitterなんか必要なかったのだろう。独りで観劇している者なんて、ほとんどいない。誰もが家族、友人を連れ立って終演後も劇場付きのバーであれこれ話している。日本人は趣味においてはいつでも孤独である。

 アメリカ合衆国の文化施設や団体のほうがこの「お膳立てのための思想」が、国のあり方からして急務だったためにしっかりしているらしい。『舞台芸術:芸術と経済のジレンマ』という本があって「なぜ文化劇場に公的支援が必要なのか」を調査した膨大な統計データから説明しているらしいのだが、この本が高すぎて買えないことがこの本の主張を皮肉にも示している。曰く、「データが示す通り、芸術は人件費の割合が高く、技術革新によるスケールメリットの恩恵を得られない。人件費は経済発展とともに上がるので、市場原理に委ねていたら芸術を富裕層だけが享受できるような社会になる。そのため、政府が芸術を支援することには必然性がある」。そう書いてあるという本が私が確認した時点で、原書・訳書ともにAmazonで3万円ほどの値段がついている。庶民にはすでにこの統計を確かめることすらできない。少なくとも、図書館が社会的に必要なことは明らかである。

 もちろん、私もそれなりに本は買いためてきた。それでも一冊3万円には手が出ない。古本屋で買った三島由紀夫全集が全部で確か3.5万円だった。日本で積極的に積極的に観劇できなかった理由は、これと同じだろう。一度、サンケイホールブリーゼで赤堀雅秋作・演出の『流山ブルーバード』という作品を観劇したが、何ヶ月も前に学生にとってなけなしの6000円をはたいてようやく俳優が米粒みたいに見えるだけの2階席、といった具合で、これはおいそれと続けられないと思った。日本では、もうすでにある種の演劇は庶民のものではなくなっていた。少なくとも今のベルリンでは卓越した作品が学生なら1500円程度で観劇できる。これはほんとうにすごいことである。当然、円安でなければ、もっと安くなる。

 合衆国、ドイツ、日本で、あるいはそれぞれの都市で、劇場で、様々な差異がある。「お膳立てのための思想」がアメリカで安定しているのは事実なのかということは行って実際に調べてみないとわからないが、社会における数値上の圧倒的な格差を見ると、かなり混沌とした状況が推察される。ベルリンはまだこんな自分でも存在していられそうな機運があると信じたい。それに、みんなわりとラフに話しかけてくる。昨日はベルリナー・アンサンブルで、「このトイレって男性用なん?」とおっちゃんが聞いていて「そうっすよたぶん」と言って中に入ると小便器があったので、「あぁ、こりゃ完全にせやな! (Es ist deutlich!)」と安心していた。なお、彼はそっちに用があったわけではなかった模様である。

 今後ドイツに長期滞在するなら、文化庁からザイケンとるかセゾンのやつか、大学に入るかのいずれかをとるのが現実的かつ望ましい。そのためにはもう少し日本での活動を加速させたほうがいいかもしれないが、それほど時間があるわけでもない。いつもいつも私のような情弱は調べているうちに瀬戸際になる。どれだけ入念に調べても、結局綻びは出る。すでに傷だらけになったが進まねばならない。何より、うまいケバブはベルリンでしか食べられない。ケバブを食べるためにはベルリンに行かねばならない。フリードリヒ通りのケバブは制覇したが、私はまだほんの一部のケバブしか食べられていない。