【ドイツ 演劇】Frankenstein(メアリー・シェリー原作、 オリバー・フルリッチ Oliver Frljić 企画『フランケンシュタイン』)――2025年3月26日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater

原作:Mary Shelly メアリー・シェリー
企画:Oliver Frljić オリバー・フルリッチ(クレジットに、Projekt von とある)
初演日:2025年3月22日
観劇日:2025年3月26日

 『フランケンシュタイン』――そういえば原作はなんとなくしか知らなかった。教養というにしては、その名前は有名すぎる。私にかんしていえば、作者が女性だということもわかっていなかった。しかし、National Theater at Home で同名の上演を観劇した(ダニー・ボイル演出)。そちらはおそらくだが原作に忠実な、コンスタンティヴ・スタイルだった。イギリスのほうでは、はじめ長きにわたり、セリフなしでフランケンシュタインが自らの生を実感する場面が演じられる。ベネディクト・カンバーバッチ(ダブルキャストのうち一人)の怪演に支えられた上演であったと記憶している。

 しかし、マクシム・ゴーリキー劇場のほうはそちらからはかなり離れていた。パーカー姿の若い男が登場して、観客に向かって自らの個人史を語りだす。その後、メアリー・シェリーも登場してまた彼女自身の物語も語られる。舞台は写真をみてもわかるように、一冊の開かれた本を背景に大きなソファーが一つ。はじめに、「現実と非現実」(Realität und Irrealität)だとか「フィクション」(Fiktion)といったキーワードが確認された。つまり、「いま・ここ」とその向こう側で「劇中劇」が上演されるというのが基本的な構造である。

 ゴーリキーで観る作品はときおり演出が装飾過多になりすぎて、ドイツ語がわからないと主題を完全に見失うことがある。現実場面と、非現実場面を行き来するときに、音響や照明などいろいろな演出が加わるのだが、これがただたんに「細切れにされた場面のシークエンス」にしか見えなかった。そのせいで個人的には集中力を維持することが困難だった。

 もちろん少なくとも20世紀半ばからある古くてかつ重要な題材であるし、「何かを創造すること」を「女が妊娠すること」にもってきた点は興味深いのだが、今『フランケンシュタイン』をやるならもっと露骨にわかりやすい別の論点もあると思ってしまった。言うまでもなく、AIである。もちろんメアリー・シェリーが5回妊娠し、そのうち生後3年まで生き残ったのはたった1人だったという事実は、非常に重いもので、それが、契機として『フランケンシュタイン』執筆に絡められるというのもいい視点なのかもしれないが、それにしてはメアリー・シェリーとフランケンシュタインを演じる俳優の〈漫談〉のような表現が、悪い意味での軽さをもたらしていた。またメアリー・シェリーが英語を話し、フランケンシュタインがドイツ語を話すというのも、自分にとっては単に混乱をもたらすだけのものだった。とはいえ、すでに指摘しているが、本来母語でないはずの英語を交えることが、これだけ当たり前になっていることは注目に値する。

 いくつかネットでの劇評を読んだが、あまり好評ではなさそうである。シャウビューネではじめて観たファルク・リヒターの >>The Silence << と比較している記事もあった。今よりドイツ語力がはるかに低かったのにもかかわらず、母に対する思いの表現としては確かに、シャウビューネの >>The Silence << のほうがより真に迫るものがあったと思う。もしかして、言語がわかる・わからないとは違うところに、表現というものは、存在しているのかもしれない。その批評を流し読みして、そういう可能性を感じた。ドイツ語の勉強のために、今後批評文を精読してみようか。演劇を評価のためのボキャブラリーが得られるかもしれない。来週からC1のクラスになって(先生もそのまま!やったね!)、難易度が上がるので優先順位は高くない。5月からの課題としてもよいだろう。インターネットに劇評が転がっている時代でよかった。