【ドイツ 演劇】Eines langen Tages Reise in die Nacht(ユージン・オニール『夜への長い旅路』)――2025年3月23日 ドイツ座 Deutsches Theater
作:ユージーン・オニール Eugene O'Neill
演出:セバスチャン・ニュブリング Sebastian Nübling
初演日:2025年1月30日
観劇日:2025年3月23日
上演時間:2時間5分(休憩なし)
ドイツ座 Deutsches Theater での観劇がしばらく多くなった。今回は、1列目かつ真ん中より、いわゆるかぶりつきの席である。マクシム・ゴーリキーならちょっと不安だが、ドイツ座なら大丈夫だろう。
オニールは『蜘蛛の巣』という初期の作品を昔演出したことがある。これがはじめての自作以外での演出らしい演出だった。とりあえずアメリカ演劇の基本をさらった。20世紀はじめ、アメリカはヨーロッパに比べて演劇の発展がやや遅れていた。誰視点で「遅れていたか」、ということになるが、20世紀初頭のアメリカ演劇は、「くだらない」メロドラマばかりで、またヨーロッパの流行を、ベルヌ条約に加盟していなかったのをいいことに、アメリカのプロデューサーがパクりまくっていた。もとは合衆国もそんな国だったのである。そこに、ようやくこのオニールが登場し、ようやくアメリカ近代演劇の礎が築かれた。岸田國士みたいなものだろうか。
"I knew it. I knew it. Born in a hotel room, and God damn it, died in a hotel room."
「ホテルで生まれて….ちくしょう、ホテルで死ぬんだ」
『夜への長い旅路』(独 Eines langen Tages Reise in die Nacht / 英 Long Day's Journey Into Night *)は、オニールの遺作で、同時に自身の若い頃を描いた自伝劇らしい*。私は、このオニールの最期の言葉を知っていて、また「習作」とされる『蜘蛛の巣』を演出した経験があるので、やや感慨深いものがあった。ちゃんと傑作も読もう。
『蜘蛛の巣』は時代もあって、〈女性への幻想〉がいっぱい詰まっていて、あまり好きな戯曲ではなかった(しかし自分にとっては、「演出」へのモチベーションとは関係がない)。習作時代の作品ということもあって、上演機会はそれほど多くないようで、関西では私の演出が初演だったらしい。娼婦にむかって、「あなたは純な人だ」と言う場面がある。ここに「純な人であって〈ほしい〉」という希望が感じられた。このようなセリフを書いてしまうのなら、夢見がちなインテリ青年のように思えるのだが、しかし、オニールの最期の言葉から察するに、たくさんの苦労を経たのだろう。
ドイツ座の演出では、まるで、大衆演劇の旅芸人のような生活が見え隠れする。はじめ、巨大な壁で舞台が隠されている。これは幕とは別の常設のもので、何でできているのかわからないが、カミテよりに設置されてある扉を開け閉めするときは、鉄扉のような音がする。音楽が流れて舞台がはじまろうとするのだが、鉄扉が上がらずツナギをきた舞台監督が登場。ここでごたつくなかで、「私の真後ろ」に俳優がいて、話し出す。ほかの人物3名も二階席の両端、三階席のシモテ側から舞台を眺めていて、口論する。彼らは家族のようである。全員赤が基調の服をきていて、まるでドイツ座の壁から出てきたような印象がある。戯曲では、父、母、息子二人なのだが、息子のうち一人を女性が演じていた。俳優はすでに観たことがある人もいて、父役の Bernard Moss 氏なんか、同じ週の水曜日にイェリネクの Angabe der Person に出演していた。レパートリー制だとたぶん、俳優の一作一作への姿勢も変わるだろう。少なくとも彼は今月三つの作品のレパートリーに出演している。
父(Bernd Moss)「ちょっとまって! みなさんにアンケート Umfrage をとりたいと思います、ねえ!」と言うのだが、私の真後ろからそれを客席に向かってやるので身体をよじらなければならなかった。母(Almut Zicher)が「ごめんなさいね、この人一日中ウィスキー飲んでるのよ」と言ったりする。終始口論の絶えない家族のおうちにお邪魔したかのような気持ちになる。
口論ばかりでぜんぜん演劇がはじまらない。準備ができたと舞台監督が言うが、また失敗する。少しだけ壁が上がってできた隙間から小道具としての酒を出してくる。以降、終始酒を呑んで、酔っぱらっているという状態が演出の中心になる。やがて鉄扉が空いて、スモークが焚かれる。後ろからの明かりで俳優が黒い影だけになる。奥行きがあるので、このような演出も可能になるわけである。そのあとには、一軒家が出てくる。しかしそれに生活感はなく、窓が無機質な、色塗りもされていないベニヤ板で塞がれている。「シラフ」の開幕から、「酩酊」にいたるにつれて、俳優の立ち位置がどんどん遠くなっていく。この遠近感を活用した演出は、日本の劇場ではなかなか難しい。ドイツ座、マクシム・ゴーリキー劇場、HAUの一階席は、私好みの「見上げる」形式である(もちろん、客席の後方にむかって上がるようにして、やや傾斜している)。前のほうの席に座ると、ものすごく迫力を感じることができる。今回最前列に座ったのは、やや失敗だったかもしれない。冒頭の長い時間、自分の真後ろでこれほど演技がなされるとは思わなかった。ドイツの演劇、油断できない。
水曜日に観劇した Angabe der Person と本作を観ても、やはりドイツ座の俳優あるいは会場がもっともセリフが聞き取りやすいような印象がある。ゴーリキーは音響の響きがいいのだが、それは音楽についてのものであり、俳優の声の聴こえやすさとはまた別の問題である。しかし残念ながら、声が聞き取れて、スペルは思い浮かべられても作品の内容への理解はなかなか追いつかない。ドイツ座の俳優たちのセリフがわかるようになるかどうかは一つの基準になりそうなので、今後も観劇を続けたい。