【ドイツ 演劇】Angabe der Person(エルフリーデ・イェリネク『その人の陳述』)――2025年3月19日 ドイツ座 Deutsches Theater
作:Elfriede Jelinek(エルフリーデ・イェリネク)
演出:Jossi Wieler
出演:Fritzi Haberlandt, Linn Reusse, Susanne Wolff, Bernd Moss
上演時間:2時間25分(休憩なし)
観劇日:2025年3月19日
初演日:2022年12月16日
そういえば、イェリネクの作品をちゃんと観たことがなかった。京都だと、地点の三浦基演出の『光のない』(Kein Licht)や『スポーツ劇』(Ein Sportstück)が頭に浮かぶのだが、残念ながらいずれも観劇できていない。本作、Angabe der Person がはじめてのイェリネク観劇となった。ただし、映画『ピアニスト』(Die Klavierspielerin、ミヒャエル・ハネケ監督、ジジェクの書籍で引用されていたので観た)、 『したい気分』(Lust、中込啓子・リタ・ブリール訳) を少し読んでいたので(挫折した)、なんとなくの雰囲気だけ事前につかんでいた。
Person は「人」「個人」の意味で、特定されていることを示す冠詞 der が女性名詞の属格(Genitiv/2格)なので、「その人の」である。そして、Angabe は辞書を引くと、「申し立て」「陳述」「報告」といった意味のほかに口語で「自慢」「大言壮語」という意味もあるらしい。Angabe は、an-gabe にまで要素は分解できる。gabe は、geben (与える/give)から来ており、「与えられたもの」ということで、Gabe 単体だと、「天分」「才能」(gift)のような意味である。今自分がとてもよく使うのは、die Hausaufgabe という語で「宿題」である(haus 家でやる、 Aufgabe 課題)。
an はというと、あまりにも用途が多すぎて「これだ」と完結に言うことができない。辞書から察するに「接触する/接触しそう」くらいのイメージだろうか。例えば、an-kommen なら、到着する(kommen =来る)で、An-schuluss なら接続、電車なら乗り継ぎといった意味がある(Schluss =終わり、結論)。
この簡単なタイトルを、こうして分解してみると、サラっと直訳してしまうよりも、主題がわかるような気がした。イェリネクの作品の多くは、タイトルがシンプルであるが、一単語以上のときはヒントが多いのかもしれない。Todtnauberg トートナウベルク(トートアウベルク)の、Tod は死を意味するのだが、この響きとイェリネクの Todtnauberg とは無関係ではないだろう。なお、あとで批評文を読んでみると、税務当局に家宅捜索されたことに対する怒りが本作 Angabe der Person には込められているらしい。
今回は、はじめて真ん中より後ろの中央よりの座席に座った。落ち着いて全体を俯瞰しつつ観るには、ちょうどいい位置だったのかもしれない。
女性が三人、順に独白する。若い女性、中年の女性、初老の女性。全員が同じ服を着ている。「傍ら」に音響機器に囲まれた男性がいて、ときおり女性たちと交流する。舞台中央には、「坂の上に立っている」家が切り出されて、ある。その裏にはトイレしかない。外にはハンガーが2つほどあって、洗濯ものは外で干すスタイルなのだろう。伝統的なヨーロッパらしい家づくりを想起させるとともに、彼女らには、トイレ以外にプライベートスペースがないということをも感じさせる。またカミテには、譜面台に台本を置いた老婆がたたずんでいて、何も話さない。彼女だけはカーテンコールに登場することもなかった。完全な装置としての存在。
独白する女性のなかで最後に出てきた俳優は、Ismene, Schwester von, に出演していた Susanne Wolf で、今回もぶっ飛ばしていた。彼女を基準に考えてしまっていいのかわからないが、ドイツ座のドイツ語がいちばんトラディショナルなドイツ語のような気がするというか、発音が最もいい気がする。よちよち歩きの自分のレベルから観た印象だが、例えば、副文 Nebensatz が die Satzklammer 枠構造 になり、動詞群が最後に置かれたとき、やや「付け足す」ような形で聞こえることがある。
Ich vermute, dass das Thema auf dem Theatertreffen diskutiert werden kann.
(私は、この話題がテアタートレッフェンで議論されうると推測しています)
例えばこんな文章があったとき、最後の >> werden kann << が後から追いかけるようにして聞こえることがある。もちろん「普通によくある」と言われればそれまでなのだが、ドイツ座の発語が「正統なドイツ語」であり、このリズム感が「ドイツ語が設定する、ドイツ語による思考の手順」に近いのだとしたら、ちょっとおもしろい。
もしこの副文が、主文だったとしたら、
Das Thema kann auf dem Theatertreffen diskutiert werden.
とな、助動詞 kann を抜けば
Das Thema wird auf dem Theatertreffen diskutiert.
で、「この話題は、テアタートレッフェンで議論される」となる。
ドイツ語を少しでもやると、こうして助動詞、動詞の位置が第二位になったり、後置されたりするのに全然慣れず、苦心する。初心者だと、どうしても文を一回思い浮かべてから話さざるをえないので、自然なリズム感からかけ離れたり、個人的にはしばしば後置すべきだった動詞、ここでは diskutiert を言い漏れたり、書き忘れたりする。そんな自分には程遠いのかもしれないが、しかしこの、後置された動詞が「付け足される」ようなセリフの言い方が、ドイツ座の舞台上で「演出されている」という印象は、少し前から気になっていて、念のため記録しておきたい。
女性たちが、die Person を三人で手分けして表現している。そして「その人」とはイェリネクのことなんだろうか。ひとまずは簡単にそう考えられる。カミテ脇にいる老婆は、今のイェリネクなのかもしれない。それぞれ単語レベルではよくセリフが聴こえるのに、文章になって頭に入ってこない。これのために特化した訓練が必要である。4月はここをレベルアップさせたい。途中からは、三人が同時に舞台上にいて、話し合ったりするのだが、一人の問いに対して、残りの二人が同時にユニゾンして答える。まるでイェリネクひとりの脳内にいるかのようだった。時折割り込んでくる男性は、同居するパートナーといったところだろうか。
演出のJossi Wieler(ヨッシ・ヴィーラー)だが、フェスティバル・トーキョーなど、日本でも演出経験がある。1951年、スイス生まれ。30年前からイェリネクの作品を演出し続けている。シュトットゥガルド歌劇場でオペラの演出も多数。日本語の情報ならこの山口情報芸術センターから。
言葉について、もう一点だけ。Spital という単語が出てきた。イェリネクはオーストリア出身で、オーストリアのドイツ語は私が勉強している標準ドイツ語とはやや異なる。das Spital(シュピタール) は病院を意味するのだが、こちらでは一般に das Krankenhaus (クランケン・ハオス)と習う。察しの通り、Spital は hospital と同根である。スイスでも、Spital というらしい。Spital を「選んだ」ことに何か意図はあったのだろうか。それともわれわれ関西人が「おいなりさん」とか何にでも「さん」付けるのと同じくして、ただ自然に Spital を選んだのだろうか。 『したい気分』読んだときにも思ったが、イェリネクの翻訳の仕事、たいへんそうだな。