Twitter(新X)は、演劇人にとってオワコンになったのか――2025年3月22日

Twitter(新X)は、演劇人にとってオワコンになったのか

 高校生だった2010年頃からTwitterをやっていたので、歴だけで言うと、15年になる。演劇歴よりも長い。当初はまだ牧歌的なタイムラインだったのだが、震災を経て多くの日本人がこれを〈インフラ〉と誤認した。自分にとってはTwitter穴場の公園のようなもので、たまに入り浸ってはのどかに過ごしたものだったが、気がつけば露店が開かれ、街頭演説が行われ、占有する私的団体が現れ、ゴミ(ヘイトスピーチや誹謗中傷)がポイ捨てされ、挙句の果てには、ルール無用のストリートファイトも巻き起こる混沌とした場になった。これによって多くの者が「時間を無駄にした」。

 もちろん、この場づくりに演劇界も十分すぎるほどに加担してきた。著名な批評家のツイートが動員に影響する。制作は躍起になって、テキストだけでなく、画像も含めていろいろな視点の情報を投稿する。そして、これが外国の一私企業の一サービスに過ぎないという事実をイーロン・マスクによって、思い出した。自分がフォローして組んだタイムラインではなく、AIが組んだ「おすすめ」のほうが優先的に表示される仕様になっている。

 何かあったとき、それがネガティヴだろうとポジティブだろうと、メンションしたり、引用ツイートしたりすることで、「何か言ってやった感」「何か行動した感」を人々は簡易に得すぎた。もちろん何の意味もなかったというわけではないけれども、ほとんどの場合は個々人の感情を肥大させることに偏っていて、コミュニケーションによって「何か新しいこと」を知ったり、発見したりする機能はもうあまりないような気がする。私は根本に立ち返り、とりとめもないことをつぶやく原理主義者になった。

 それにしても、演劇界の、とくに今の30代〜40代前半くらいまではTwitter依存が著しかった世代だといえるだろう。そして、そこにかまけて、独自の販路を持たなかった者たちは、その脆さを露呈させている。コロナ前から徐々にオンラインサロンなどをはじめとして、「顧客を囲い込む」スタイルが散見されるようになった。Twitterはよくも悪くも「あいだ」をとった。そのため、オールド・メディアにすらなり損ねた。サブスクなどがあるようだが、結局今でもある程度「広く浅く」拡散するメディアでしかない。この「広く浅く」は「軽く浅く」の00年代以降のサブカルのノリ引きずっていると相性がよかったように思える。そして今、画面ばかり見て、眼前の人間や観客という現実から目を背けてきたツケが回ってきた。コロナで救済に与れたのは、すでに行政をはじめとする救済者とネットワークを形成できている者たちで、Twitter に固執した者たちはそこが〈虚無〉であるという事実から目を背けた。そこには不条理の文学すら存在しない。

 ただ、これに代わる、中心的媒体をインターネット上で演劇界は見出せておらず、とにかく何も見えなくなっているような印象がある。平均的にネット音痴が多い。それは〈演劇〉というオールデスト・メディアに携わっている者たちの公約数をとるので当然なのかもしれない。スマホやPCの調子が悪いという現象など、それほどお金をかけずに、私はここ10年体験していないのだが、その状態を平気で放置する者が少なくない。おそらく関心がないのが最大の要因なのでこれは他人にはどうしようもないし、私には理解できないだけで、一概に悪いことともいえない。

 ただし、ネット上に情報の置き場を失った今、「別の選択肢」を誰かが探さなければならない。あるいは「広く浅く」「軽く浅く」のあり方を衰退させて「狭く深く」「重く深く」に向かうべきなのかもしれない。もちろん、そのほうがセクハラ・パワハラなど、濃いコミュニケーションにおけるリスクが、比例して上がることには留意しなければならない。というわけで、ネット上の「別の選択肢」となるものを探す旅に出ていて、なんとなくFacebookやHPのブログを活用してみている。インスタグラムは、他のSNSとの関連づけが難しくて手が伸びない。というか、これらも海外資本であるので、もしかしてニコ動しかないのでは、などと考えている。しかしニコ動にはまだ黎明期インターネットの残滓があって、そこと最も相性が悪そうな〈演劇〉があまり容易に飛び込めたものではない。オタクと演劇人は友達には絶対になれない。discordは海外資本だが理念がいい。しかし最近やっとZoomがわかってきたような老頭児への配慮が難しい。 ? 詰んでる?もうネット諦める? いや、あるいは老頭児を切り捨てるか。とにかく何かをいちど諦めねばならないのかもしれない。だっていろいろ限界なのだから。誰もが考えていることだろうけれども、オンライン上にどこか情報がある程度まとまる場があったほうがいい。このままでは、地方に不利すぎる。私が知らないだけで、もうあるのかもしれない。あったらたぶん私が仲間外れになっているだけなので教えてくれ。

 私たちは、いつ Twitter に別れを告げるのだろうか。まるでじわじわと過疎化する日本の田舎町のようである。あるいは、地方自治体肝いりで作られたニュータウンがわずか十数年ですたれてしまったかのような感覚がある。まだ〈住民票〉があるので出向かなければならないが、それだけの機能しかなく誰もこの町を愛していない。イケイケの起業家が町おこしビジネスをはじめたらしいが、駅前がちょっと下品な街になったくらいの変化なのかもしれない。

 そういえば、こういうSNSで、何かでつながろうとするとき、現代の文化的な資本を持った若者は「ゆるく」という言葉を使う。この言葉は小さな流行語の一つだろう。私はあまりこの「ゆるく」が好きではない。いや、それはときには有効だけれども、ただ単に「強く」への覚悟を欠いているだけではないか、と思う。「ゆるく」のほかにも、「……と、思っていてぇ~、……」(語尾は伸ばす)という話し方が近年散見される。とくにリベラルっぽいインフルエンサーに多いかもしれない。これが出た時点で、影響を受けやすい、オリジナリティのない話し方をする人だと感じる。少しでも真剣な内容を扱う場になるとものすごくたくさん使われる。これだと、主張の論理性に弱さがあることを自覚できないのかもしれない。完全な推測だが、この言葉遣いは、Twitterにおいて、140文字という絶妙な短さで強制的にセンテンスが区切られることで、実際にはつながりが薄いのにもかかわらず、何か構成したように感じられてしまうという効果があったのかもしれない。

 親指と頭がつながっている。何か思うことがあったときに、「長文ライン」をおくりつけてくるようなタイプの人間に直面したとき、「かくして言文一致運動は完結したのだなあ」と明治以降の日本語の歴史に思いをはせて、しみじみとする。ただ一致しすぎるのも考えものである。このような場合には、往々にして、当人には相手を「説得する気」など一切なくただ感情を爆発させたいだけである。考えてから文章を書いてほしいよね。

 話がそれてしまったが、〈演劇〉と相性のいいサービスを探すか、自分でつくるか、あるいはもっとクリエイティブなことを考えるか、逆にトラディショナル(オフライン)に回帰するか、いくつか大きく方向性分けることができる。もう少し意見を集めてみよう。