劇団辞めてドイツ行く(48)孤独好きな日本人は、書類手続きが終わらない――2025年3月12日

アンメルドゥング 済
携帯電話契約 済
銀行口座開設 済

と、これのどれもが結構たいへんなのだが、

・アンメルドゥング
 ぜんぜん予約が取れない

・携帯電話の契約と銀行口座の開設
 ドイツ語が流暢じゃないとテレビ電話の本人確認が困難

という、ドイツにきて間もないような人には重い負担である。ドイツ語がネイティヴばりに話せる友人がいれば、かなり楽になるのだが私のように「何もなく、ただ来た」というタイプにはかなり時間がかかる作業である。しかし、働き出して今、以下の二つの手続きを求められた。

TK保険に加入 ※1
Rote Karte を取りに行く ※2

※1 規定額以上の収入を得るなら、旅行保険からこちらに「格上げ」する必要がある。

※2 詳細まだ不明(調べてないだけ)。アンメルドゥング同様に予約を取りに行く(取れない)必要があり、ドイツ語がわからないと追い返された例もあるらしい。

 TK保険への加入は、ネットでササッと終わったが、何から何までドイツ語のみなのでよくわからない。もうすぐ保険証が届くらしい。規定の以上の収入を得るならこの「法定健康保険」(GKV/Gesetzliche Krankenversicherung)への加入が必須になるとのこと。入国前に1年分(ワーホリの申請期間分)加入しなければならなかったステップイン保険はあくまで「旅行保険」である。めんどくせえな。

 1年という期間に限定すると、当然手続きに対して補償される分が短くなるので、損である。自分は8月にはとりあえず帰国するのだが、そのときにはTK保険を解約しなければならないうえに、そのためには、逆アンメルドゥング(住民票を抜く)をしなければならない。
 こういうとき、多くのドイツ国外からきた人間は自国民のネットワーク、コミュニティを活用する。しかし、あまりこれは私の印象にすぎないが、日本人というのは比較的海外でネットワークを形成することを好まないのかもしれない。もちろん、助け合いの精神はものすごく感じる。というかありがたいことにその恩恵を受けている。しかしながら、海外にいながらにして日本人同士で関係を持つことについて、ネガティヴなイメージを持つ者は少なくないと思う。誰だって「後ろ指さしたいマン」なので、少しでも「甘さ」を見せると、「そんなの意味なくね?」と言おうとする。「意味があるかどうか」は本人が振り返って決めることであり、他人にとやかく言われる道理はない。それでも、「海外いても、結局日本人同士でつるんでさあ…」という冷笑から逃れることは難しい。

 私から見えていないだけなのかもしれないが、ベルリンの街で見るいろいろな国の人たちは、わりと同じ国から来た、同じ言語を話す人同士でいることのほうが多いように思う。様々な言語が飛び交う。まあ、そのほうが楽しいもんね、休日くらい休もうよ。

 俯瞰してみると、多民族で社会や共同体を形成することの現実をここにみる。数値のうえでは、多民族で「多様な」社会を形成できていたとしても、そこには没交渉があり、それは無数の「小さな壁」として機能している。細かいことにごちゃごちゃうるさい日本の気質からして、多様な社会の形成にはたくさんの乗り越えるべき問題があるだろう。

 例えば、ホテル勤務時代にたくさんの外国人スタッフとともに働いた。彼らは自らの意思で日本に来ているので、いろいろなことにポジティヴに取り組める。しかし、彼らがパートナーや子どもたちを日本に連れてきたとき、生活上の苦難がある。子どもが生まれて、保育園に通わせたいが、パートナーも子どもも満足に日本語が話せない。そういう状況に対応できるスタッフが、日本の保育園に満足にいるだろうか。そもそも保育園自体、保育士自体もめちゃくちゃ不足しているのに。保育園、小学校、中学校、高校とそれぞれの段階で、「日本語が話せないこと」は大きなディスアドバンテージになり、それは子どもにはとくに「不条理」として映るだろう。京都というそれなりに「国際的な街」ですら、そういう状況を十分に想定しているようには思えなかった。広島の世帯数3000の街でも、しかし、コンビニの店長はバングラデシュ人だった。家族で移住済らしい。定食屋にはベトナム人が複数働いていた。

 ただ、だからといって、いろいろなものを英語にしようというのは道を誤れば「文化の破壊」につながる。楽天が社内公用語を英語して久しいが、楽天はあくまで私的な企業であり、「社会の形成」という点において日本で日本語以外の言語を「公用語」として採用するのには慎重でなければならない。

 こういう考えは保守的なものにすぎず、その根拠も突き詰めれば「主観的なところ」に落ち着かざるをえない。しかし、「主観的なところを捨てろ、合理的に考えよ」というのなら、全世界が英語でやりとりするように働きかけなければ筋が通らない。言語の壁なんて、ないに越したことはないのだから。しかし、厳然たる事実として世界には無数の言語が存在し、同時に、そのそれぞれの言語でなければ表現できない現象も膨大に存在する。AIが今後爆発的に発達したとしても、この膨大さにたどり着くには言語の歴史はあまりに長すぎる。テクノロジーがすべてを解決するという楽観に対して、ここについてはペシミスティックな予感を持っている。

 とりあえず、日本に今後、日本語が母語話者でない者が入ってくることは人口的な問題、経済的な問題からして避けられない。日本には、海に囲まれた地理的な事情と、嫌がる余裕がまだあるが、そろそろこの解決策として「ちゃんと日本語を学んで、ちゃんと日本語を教えられる状況を整える」を推進したほうがいいのではないかと思う。

 ドイツには Volkshochschule という地方自治体が運営する、安い語学学校がある。細かい背景はわからないが、これは一つの取り組みといえるだろう。しかし、数があるわけでもなく、いろいろ不定期で、不安定である。。日本で十分ドイツ語をやっていない状態で、この不安定性に賭けるリスクは取りたくないので、普通に料金がかかる語学学校に入ることにしたわけである。

 ホテルで出会った同僚たちと逆の立場になって自分が彼らに対していろいろ気を回していたことがわりと間違っていなかったことを確認する日々である。最近やっと、カフェで Ohne Milch が聞き取れるようになってきたのだが、「お前もっとはっきり発音しろや」と毎回イラっとしている。難民でもないし、勝手に乗り込んできといて、身勝手だけれども。

 書類手続きが多すぎて、ぜんぜん落ち着かねえ。さっきは、届いた手紙をちゃんと読み込むのに苦労した。ワーホリビザだけでぜんぶOKしておくれよ、もう。残された期間は長いようで短い。そろそろ優先順位に応じて行動していかなければ。