【ドイツ 演劇】Café Populaire Royal(『カフェ・ポピュレール・ロワイヤル』――2025年3月14日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater

作:Nora Abdel-Maksoud
演出:Nurkan Erpulat
観劇日:2025年3月14日
初演日:2024年11月21日

 マクシム・ゴーリキー劇場は、今までにみたベルリンの劇場のなかで、音響空間が最もいいと感じていたのだが、その理由を庭山さんが教えてくれて、自分でも調べてみた。1821年、まずカール・フリードリッヒ・シンケルというプロイセンの建築家が設計図を書き、それをカール・テオドール・オットマーという建築家が引き継ぐ形で、1827年に建物が完成した。もともとはベルリン・ジングアカデミー(Sing-Akademie zu Berlin)音楽(合唱)協会(世界最古の混成合唱団)の本拠地、コンサートホールだったとのこと。パガニーニ、リスト、クララ・シューマン、ロベルト・シューマン、ブラームス、シュトラウスなど、私でも知ってる音楽家が演奏した。シンケルの図面には 「下方へ向かって消失させられる扉、これによってホールが一体となる」>>Thüren, welche man nach unten verschwinden lassen kann, wodurch diese beiden Säle vereinigt sind<< とあるらしい。それでものすごく音響効果がよく、高く評価されていた。確かに今でも席ごとに音の聴こえ方のバラつきが小さいと感じる。1848年にはプロイセン国民会議の会場に選ばれたりしていたが、時を経て、1943年に空襲の被害に遭い、二次大戦後にソ連に接収、1952年にブレヒトの叙事演劇に対抗して現在のマクシム・ゴーリキー劇場が入った。次からは歴史をちゃんと感じながら、トイレのあのレタスみたいなペーパータオルで手を拭こう。

 ゴーリキー劇場は音響だけでなく、自分にとって作風も最も好みのものが多い劇場である。ベルリン到着から一週間後はじめて行った劇場という思い入れもあるのかもしれない。あと客いじり多めである。ドイツ語がわからない状態で、最前列に座るのは危険かもしれない。覚悟がいる。そして、そんな覚悟もないのに、「あ! 空いてる!」くらいのテンションで、最前列カミテから一席目を予約してしまったのをやや後悔した。

 ドイツ語、どう考えても日々上達しているはずなのだが、ここ最近よりわからなくなってきた。ちょっとわかる、慣れてきたという安心感のために、わからなくてもとにかく何かを得ようという当初の必死さがなくなったのもあるかもしれない。同じ演出家(Nurkan Erpulat)の手による、HUND, WOLF, SCHAKAL もそうだったが、どちらかといえば美術が強めのドイツの演劇のなかでも、「セリフと身体」でごり押しする印象がある。Nurkan Erpulat はトルコ・アンカラ出身で、ポスト移民演劇(移民の移民後を扱う演劇)の代表的な作家らしい。

 演出にも共通点があった。本作では、はじめ四角い枠のなかで、道化を演じる。道化というのは赤いつけばなをつけたクラウンの古い大道芸だけでなく、インフルエンサー的な動画配信なども行うという幅広いものである。この四角い枠は、HUND, WOLF, SCHAKAL でも大きさこそ違うがあった。四角い枠は、たぶん彼にとってわかりやすく世界を区切ることで、スマホを通した現代の世界の見え方を規定しつつ、そこにはまりきらない人間存在も同時に表現する手段なのだろう。四角い枠 の後ろは、しばらくのあいだは幕で隠されている。幕が上がると急に奥行のある世界(ボクシング会場)が広がるので、視覚的にダイナミックな展開を印象づけることができる。

 セリフが無限にあった。さすがのゴーリキーの俳優たちもセリフが抜ける場面が複数回あって、プロンプトが入っていた。『熱海殺人事件』のように美術がシンプルなわけではないのだが、俳優に胆力がないとすぐに息切れしてしまうだろう。「パワープレイ!」である。

 悔しかったのはふつうにドイツ語ぜんぜんわからなくて勢いに押されるだけだったということだけでなく、というか、恥ずかしかったのが、俳優が一人客席後方から現れて、私の手をおもむろ握ったあとに、舞台上に上がり、その後手押し車(老婆が持つアレ)を上げることができないでいたのだが、なんか自分に「てめえ、これを上げろバカヤロー」と言っているように思えて、「ゴーリキーならありえるぞこれ」と勘違いして一瞬席を立ってしまったことである(『群盗』で実際に観客を舞台に上げていた)。別の席で出直し、再観劇でいろいろ確認したい。

 ドイツ語がんばろう。とにかくリスニングが弱すぎる。徐々に複文は組めるようになってきたし、枠構造(Er hat darauf geachtet, dass das Thema diskutiert >>werden kann<<. など副文では動詞群が文末にくる)も意識して話せるようにちょっとずつなってきた。言いたいこと、書きたいことはなんとかなってきた段階である。しかし、相変わらず、人の話を聞けないでいる。リスニング問題もぜんぜん合わない。そもそもメモもどうとったらいいのかわからない。いずれにせよ数をこなすしかないのだが、精読するなど、丁寧に読む時間もないといけないだろう。出勤を抑えて、来週からその時間も取りたい。トラディショナルなやり方が自分には向いているようである。