【ドイツ 演劇】Ophelia’s Got Talent(フローレンティナ・ホルツィンガー『オフィーリアズ・ゴット・タレント』※)――2025年3月9日 フォルクスビューネ劇場 Volksbühne am Rosa-Luxemburg-Platz

コンセプト・演出:フローレンティナ・ホルツィンガー Florentina Holzinger
初演日:2022年9月15日
観劇日:2025年3月9日
上演時間:2時間40分

※発音によっては、オフェーリアなのだが、カタカナ表記するならどちらにするべきなのだろうか。基準がわからないのでとりあえず『ハムレット』のほうの日本での一般的な表記に合わせた

 ホルツィンガーの作品は、2022年にロームシアター京都で『TANZ(タンツ)』観劇していた(京都国際舞台芸術祭/KYOTO EXPERIMENT)。TANZ(≒ダンス)というだけあって、身体そのものが主題に含まれているので、何を「見ろ」と言っているのかは明白で、また個人的に気になっていたボディ・サスペンションを作品に導入していたところに感銘を受けた(ふつうの人は、ボディ・サスペンションが何か気になってもググるべきではない)。

 同作は、2023年開催のテアタートレッフェン(ベルリン演劇祭というのが定訳のようだが、Treffen はドイツ語で「会う」(ミーティング) なので、直訳するなら演劇会議かもしれない。個人的には誤訳だとしても演劇〈大会〉としてみたい)に招聘されている。

 Ophelia’s Got Talent というのは、アメリカズ・ゴット・タレントのもじりだろう。日本でもこの手のバラエティ番組がアメリカの後追いであった気がするが世の中を席巻するようなことはなかったと思う。そもそもテレビ自体が完全な衰退期に入っていただけでなく、見世物とShow には、日米間では大きな隔たりがある。バチェラーやバチェロレッテは結局配信なので、誰もが観ているわけではなく、テレビとは別の観測方法が求められる。

 そもそも、現代の日本人は、「見世物」を信じていない。そのため、「職業としてのパフォーマー」の地位が高くない。バブル期以降、日本の大衆が愛するのは、AKBや松本人志以降のお笑い芸人たちのように、「飾られないその人そのものっぽさ」であり、そして人間国宝級であっても彼もまたただの同じ人間であるということをネガティヴに確認する。言い換えれば職人や、その技術へのリスペクトを欠いているということである。技術が技術らしくあればあるほど、それは「虚飾」とみなされうる。おそらく、営業マンたちによる嘘が日常になりすぎて、せめてエンターテインメントでは、「素朴さ」を見たいのだろう。ーーこんな感覚を持っているとたぶん、本作は少し入りにくい。

 はじめに宙に舞う、剣を飲み込むなど、いくつかのパフォーマンスがある。それぞれが個人的なストーリーを語ってからパフォーマンスに入るというお馴染みの流れがある。そして水中からの脱出ショーにはいったときに、「トラブル」が起こる。女性が時間内に脱出できないのである。「トラブルシューティングの時間」になる。ダラっとした時間のなか、カミテからテクテクと現れた演者の足音がパフォーマンスに拡張されていく。舞台には脱出ショー用の水槽以外に、一人分の幅で、横長の水槽とプールがある。水槽は透明で、観客からは人形が泳いでいるように見え、プールは上から撮影された様子が投射される。

 タイトルからしても、ミレーの絵画『オフェーリア』に着想のヒントを得ているのだと思う。ただ、『タンツ』でもそうだったのだが、ホルツィンガーでは、マネの『草上の昼食』を想起する。自らの性被害の告白などの個人的なストーリーと、そして、上空からホンモノのヘリコプターが下りて来て、それによじ登り、「射精する」など強烈な手段で身体を供するパフォーマーたちを観て、観客はみな《着衣の男性》としての意識を強く持たざるをえないからである。パフォーマーがみな倒れてのち、最後に、子どもたちが登場する。その無邪気さはここまでの下劣さをすべて浄化するような印象があった。ホルツィンガーの作品に子どもを出演させられるのか。とくにしんどい表現をさせられているわけではなかったが、倫理上、あるいは法律上のハードルはなかったのだろうかと考えた。調べるしかない。

 どちらかといえば、『TANZ タンツ』のほうが好きだった。最初に述べた、作家と共有できる文化の狭さもあって、主題に深く入り込むことができなかったのかもしれない。一人の作家とちゃんと向き合うためには3作くらいは最低でも触れたほうがいいので、あと一つどこかで観て、同一直線上にない3点を結び、〈面〉にしてみたい。