【ドイツ 演劇】Die Heilige Johanna der Schachthöf(ベルトルト・ブレヒト『屠殺場の聖ヨハンナ』、演出:Dušan David Pařízek)――2025年2月26日 ベルリナー・アンサンブル Berliner Ensemble

観劇日:2025年2月26日(Voraufführung ※プレビュー公演)
初演日:2025年2月27日
会場:Großes Haus
上演時間:2時間15分(休憩あり)
作:ベルトルト・ブレヒト
演出・舞台美術:Dušan David Pařízek
出演:Kathleen Mogeneyer(als Johanna Dark) Stephanie Reinsperger (als Mauler) Marc Oliver Schulze (als Cridle) Amelie Willberg (als Lennox, Gloomb, Paula Snyder, Zeitungsleute) Nina Bruns (als Frau Luckerniddle, Martha)

 初演日を確認しようと思ってネットを漁っていたが、初演日は2月27日とどれにも書いてある。しかし、自分が観劇した日は間違いなく2月26日である。タイムスリップでもしたのかと思ったが、よくよく調べてみると、Voraufführung プレビュー公演だったようである。ちゃんと調べてから観劇しよう。

 久しぶりのブレヒト観劇である。はじめてのブレヒト観劇は2013年か、2014年の京都の人間座で、金田一央紀演出『ありえないこと、ふつうのこと』(千田是也訳では『例外と原則』だったか)を観劇だった。そのときは「読んだときの印象通りのブレヒト」という感じだった記憶がある。その後、京都で地点の『ファッツァー』を観劇する。私くらいを境に、京都では地点の影響を色濃く受けた作家が出現する。岡本昌也、野村眞人などもそこに含まれる。京都の小劇場史には、私の観測上、いくつかわかりやすい転換点がある。一つは、太田省吾が京都造形芸術大学の映像・舞台芸術学科の学科長となったとき。私から10歳程度上になると、太田省吾の教え子が結構いる。あるいは、ゼロ年代に(正確な時期がわからない)チェルフィッチュがアトリエ劇研で『三月の五日間』を上演し、その影響を受けた者たち。もちろん、京都舞台芸術協会の設立や学生演劇祭やKYOTO EXPERIMENTの開催もある。個別にでも辿っていくと、いろいろ検証しがいのあることなのだが、京都の話ではなくて、ベルリンの話をしなければならない。

 ぜんぜん席が空いていなかったので、カミテ脇の二階席をとる。ぜんぜん見えない。何がそこまで演劇体験を変えてしまうのかわからないのだが、とても軽い印象になってしまった。舞台は傾斜していて、カミテには楽器やサンプラーが置いてある。Gorkiで観たMOTHER も傾斜舞台だった。傾斜舞台は遠近感を出すことができたり、シームレスな俳優の美しい配置を可能にしたりするので、とても魅力的なのだが、俳優の身体の制御の難易度がグッとあがる。それだけでなく、稽古場でなかなか本番通りの身体の状態を確認するのが簡単ではなくなってしまうというデメリットもある。専用の広い稽古場があるといい。ベルリナー・アンサンブルはこれまでで最も重厚な歴史を感じさせる劇場だった。ただ、こういう点は日本の伝統芸能も抱える問題であるが、照明の灯体などの現代的な機器が、彫刻などで飾られた空間に「とってつけたように」固定されている。これはまあ、気にしなければ見えないのだが、ドイツでも議論になったりしたことはあるのだろうか。

 開演時、携帯電話の着信音がスピーカーから鳴る。俳優が「静かに」の合図をして舞台がはじまる。キザな開演である。二階席からだと、正直自分のドイツ語力では得られる情報が少なすぎて、視覚的に何が起こっているかくらいしかわからない点が多かった。あらすじも予習はしていったのだが、あまり役には立たなかった。ただ、昔、市川先生の講義で観たドイツ演劇の映像や自分で調べたアイナー・シュレーフの演出作には、いちばん類似しているような印象があった。白が基調となった舞台で、影と映像を効果的にしよう、扉が三つ空き、その陰が差す演出は美しかった。

 幕間。Ich brauche Pause と言って幕間に入るのだが、どういうわけか、ヨハンナ役の俳優はマイクパフォーマンスをし続けている。その様子が実況カメラで背景に大きく投射される。それが終わったと思ったら、また別の俳優がエレキギターで弾き語る。ファン・サービス溢れる幕間である。

 今回の学習ポイントとしては、初見の外国語の演劇で二階席の端っこだとかなり理解が難しくなるということであった。前後関係とか、立ち位置などが俯瞰的になりすぎて、時間と空間の把握、カントの言う感性的な理解しかなく、悟性はギリギリ、理性にまでは届かないといった感覚である。またウェブサイトを確認すると、二人の俳優は兼ね役をしていたようなのだが、それもよくわからなかった。次は、1階席を予約しているので、もう少し理解できるだろう。