【ドイツ 演劇】Prima Facie(『プリマ・フェイシイ』作:スージー・ミラー、演出:アンドラージュ・デメテル)――2025年2月23日 ドイツ座 Deutsches Theater

観劇日:2025年2月23日
初演日:2023年9月17日

作:Suzie Miller
演出:András Dömötör アンドラージュ・デメテル
出演:Mercy Dorcas Otieno
翻訳:Anne Rabe

die Bundestagswahl 2025 ドイツ連邦議会選挙

 ドイツ座に到着。ものすごい数の人が集まっていて、tagesschauの選挙特番をみんなで観ている。「極右」政党とされるAfDが、前回から倍増の約20%の得票を取得して第2党にまで躍進。ショルツ率いるSPD(Sozialdemokratische Partei Deutschlands/ドイツ社会民主党)は惨敗、CDU/CSU (Christlich Demokratische Union Deutschlands/Christlich-Soziale Union in Bayern e. V./キリスト教民主社会同盟)が第1党となった。いまのうちに観劇しておかないと今後どうなるかわかったもんじゃない。最前列に座る。

 ヲタク気質が抜けきらないところがあって、「原作厨」的なものの見方になってしまうところがある。本作は、ナショナル・シアターライブで観てから、ストリーミングでも何回か鑑賞していてここ数年でのお気に入りである。ジョディ・カマー Jodie Comer が最強すぎたせいもあるのだが、俳優の馬力が試される戯曲であることは間違いない。

 主人公テッサは、「レイプ犯の弁護を専門とする弁護士」で、冒頭ノリノリで相手の記憶と記録の矛盾を鮮やかについていく。この場面を楽しくやればやるほど、このあとのテッサ自身が性的暴行の被害者になってからの絶望が効いてくるという、言葉にしてしまえば非常に単純な構造である。はじめに楽しくしていられるは、俳優だけでなくコミカルで皮肉のきいたセリフを笑っている観客も同じで、一度この一人芝居に深く共感することで、強烈な葛藤を内側に抱えた主人公とともに、まさに「斜線を引かれた主体」になってしまうのである。演劇ってこれだよねと思う。

 戯曲のすごさはわざわざ自分が書くまでもないことなのだが、加害者になる男の名が「ジュリアン Julian 」という点がかなり深い。英語だと、Juristは、裁判官という意味である。意味のない類似性ではないだろう。もうちょっと深く読み込んでみるべきなのだが、ドイツ語だと、Jurist (ユリスト)になるので、ここの語感に合わせてみてもよかったのかもしれない。ただ日本人には、l と r の違いがよくわからないために、二つが似て聞こえるだけという可能性もあるので、今度誰かに聞いてみよう。

 演出は、部分的にはジャスティン・マーティンによるものを踏襲していた。衣装は色こそ違うが生地の質はほぼ同じだったし、美術の構成要素は異なっていたが、白い台形の吊ものなどには、その色味にかなり近いものを感じた。しかし、冒頭の裁判の場面はだいぶ違ったスタイルである。ジョディ・カマーはだいぶ饒舌な印象だったのだが、こちらはダンサブルで「相手に話させる」ことで、術中にはめるというような動きだった。しかし、あまり空間的な密度が高いとは思えなかった。それは美術にもいえることで、スタンドライトの配置や美術を動かしたり小道具を渡したりする「黒子」の動きなどに、余白を見てしまった。同じ会場で、Ismene, Schwester von という一人芝居を見ていたのもあって、マイクで声を拡張するのも、空間の密度の低さを際立てているように感じられ、かなりネガティヴなものとして聞こえてきたた。はじめは手持ちマイクだったので、これを切り替えるのかと期待したのだが、ふつうに声を拾って広げているだけであった。

 国によって伝統的に「良い」とされる振る舞い方の違いがある。ドイツのなかで、ものすごく保守的でクラシカルな文化圏だと、身振り・手振りが多いのは好まれないらしい(100年前くらいの話かも)。他方、アメリカにはこういう記述がある。

「彼は、車のステップの所に立ちあがって、いかにもアメリカ人らしくしきりと身ぶり手ぶりを交えながらそう言った――こんなことをやるアメリカ人の特徴・・・・」。

これは『グレート・ギャッツビー』の一節である。自分としては「キャメロン・ディアスみたいなやつ」くらいの認識である。そういえば、去年のクラスメイトのアメリカ人も身振り手振りが多かった印象がある。日本人は、人前で話す仕事でもない限りは、少ないほうだろうか。同じヨーロッパでも、そういう文化の違いがあるのかもしれない。これにはもう少し観察が必要である。

 劇場を出ると、まだ人がたくさんいて選挙についてあれこれ話していた。選挙の日に劇場で選挙特番を観に集まってくるというのも、日本人にとっては奇妙な光景である。そもそも「野球、宗教、政治」の話はしてはならない文化圏である。というか、演劇人同士でも演劇の話をしないほうが無難である。自分の思ったことを言うよりも、話を合わせて「目上の人間をいい気分にさせておくこと」のほうが重要であることのほうがほとんどである。ただそうしているうちに、やがて戦い方を忘れ、そして自分が深く傷ついたときに見て見ぬふりをされてやっと、自らもまたそういう社会を「欲してきた」ことを知る日がくる。

 とりあえず、Prima facie 誰か翻訳してくれんか。英語はもうめんどくせえ。