芸術嫌悪――ほんとうに子どもたちに“演劇”を与えることは正しいのか
30歳を越えて、同級生の多くが子どもを育てるようになったり、友人の子どもと触れ合う機会も増えた。すると、子どもと自分がどう関わるべきなのか、子どもたちから自分はどう見えているのか、など、たまに考えるようになった。いちおうあれか、劇作家・演出家というか、もうちょっと子どもらしくざっくり言うならアートやってるお兄さんてことになるのか。自分が子どもの頃から考えてみれば驚くべき状況である。あの頃「なりたくないと思った大人」になっている。
中学生の頃、美術の授業で、絵本を書くというものがあった。それより前から感づいてはいたのだが、絵が下手すぎてみんなにバカにされた。先生も、フォロー不可という表情で、申し訳程度に、家の絵の背景を描き足した。ここから、たぶん私の芸術嫌悪はコンプレックスとしてはじまったのかもしれない。子どもの頃は、芸術と芸術家が嫌いだった。当時(2008年頃)、大阪市長だった橋下徹が文楽協会への補助金カットを明言していて、中学生ながら政治・経済への関心があった自分はそれを支持していた。そんな人間が、大学生になって、演劇をはじめ、聖パウロほどではないがゆるやかに回心し、以降しばらくはリベラルとして生きることになる。今では伝統芸能のなかでは文楽を最も参照するようになった。
あの日からしてみれば想像だにしなかったが、いちど学校でワークショップをしようとした。日にちを決め、学校に行って打合せまでしたのだが、自分がコロナになって代役をお願いすることになった。“神”が「やめとけ」と言っているような気がした。四の五の言ってないで、もしまた仕事があるならありがたく受けてやってみたらいいではないか、と無責任に言われるかもしれない。しかし、いかなることも先験的に考えておこうとする性分なため、せっかく与えられた経験までの猶予は有効に使っておきたい。
結局、今でも、子どものうちから芸術に触れることがいいことだとは心の底からは思えていない。むしろ、芸術は私にとってはすべて、金持ちの嗜みであり、いやらしいものであり、格差を可視化するものであり、差別意識を助長するものであったからである。芸術にそのような側面があるのは偏見ではなく、事実である。これは一部の人間が、体育の授業を憎んでいるのと同じ構造の話である。よい教員に出会うことができれば、体育だろうが、芸術だろうが、印象が悪くなることはなかったのかもしれない。しかし、私なら美術の授業からはじまった、そのような類の憎悪の積み重ねが、文化事業に予算を割かない社会を醸成してきたのかもしれないと最近考える。正直、芸術に触れる時間を与えるくらいなら、体育を増やすほうがいいと思う側だった。国語の授業でもいい。英語は逆にいらんと思っているが、それはまた別の話である。
たまには、芸術(例えば演劇)をやっている者が、ふだんの授業とは“別の視点”で子どもの思考に刺激を与えることは重要であるかもしれない。しかし、その“別の視点”とは、ほんとうによいものなのだろうか。むしろ、余計な“別の視点”など持たないで、真っ直ぐ、既定の路線に乗って生きていったほうが、大多数の者は幸福なのではないか。また、“別の視点”を与えるという目的なら、既存の授業で十分であり、わざわざ割り込むほどの意義はないように思う。演劇が割り込んでいいのは森本薫一作分くらいだろう。少なくとも、私はヤブ医者なので、薬の正確な調合ができない。悪いことしか教えられない気がする。
嫌いだった芸術だが、演劇をやるならと無理をして学び始めた。例えば、「シャガールの絵が飾ってある」とト書きにあったり、「この人物はサティやドビュッシーが好き」と言われても、コードがわからないので議論に参加すらできないということが起こりまくったからである。それで、今ではできれば、「好きな絵は?」と聞かれてミレー『落ち穂拾い』と答えたい。しかし、私はそれを美術の教科書でしか観たことがない。ならばそう答える権利はないのではないか。音楽は? 生の演奏を聴くことなしに、データだけでそれを好きと表明していいのか。そんなによくない音質のイヤホンで聴いている人に対して、軽蔑のまなざしを浴びせたり、哀れみを覚えたりはしないか? 思いを寄せる女性がボードレールを読まない夫を持つことを知ったラディゲの優越感に、誰もが共感するではないか。楽しみ方は千差万別というのは、作品との出会いの一瞬だけのものであり、止まれ、お前はいかにも美しいから、と言っても時は止まらない。いつかは他者の介入によって、時が動き出す。
音楽も、素直に聴けたのは一瞬で、中学生になると、子供らしく、まずJ-POPを軽蔑し、次に邦楽を軽蔑するようになる。また、ジャズやクラシックはロックを馬鹿にすることを親からの誹りで印象づけられた。ニワカほどこうなる。ジャンルに優劣などないと今は知っているが、あるかのように植え付けられてしまったのは大きい。仮想敵がなければ、それを好きと言っていられない貧しさに10代を費やしてしまった。
そして、芸術のポジティヴな側面を言うときには、教科書的な回答しかできない。ずっと中二病みたいに陰の部分ばかりウロウロしている。そんな者は子どもの前に立つべきではないのかもしれない。
個人のことはおくとしても、一部から嫌われるのは避けようがないので、少なくとも、情報だけは簡単に入手できる今、社会的には、入り口だけを用意しておいて、あとは成すがままに任せておけばそれでいいのではないかと思う。これが公的な制度でできる限界ではないか。つまり、機会さえ平等であれば良しとする立場である。確かにそうしてしまうと、例えば能や歌舞伎に一生触れずにいるかもしれない。しかし、それでその人の人生を「損した」と評価する権利は誰にもない。大谷君のすごさをわからない人を軽蔑する権利が誰にもないのと同じである。
子どもには好きなことを探してもらい、みつけたらあとは好き放題に生きてほしい。聞かれたことにはなんでも答えられるか、自分が答えられなくても答えられそうな人を紹介できるような大人でありたい。だが、そうして受動的になり、子どもの好奇心に依存しているうちは、何も貢献できないのかもしれない。しかし、教育現場で働くか、子どもを育てるかいずれかでなければ、今の社会では子どもと大人が気楽にかかわることは不可能である。合理的すぎると思う。「まともな人間を育てることで社会のフォーマットを出力するのではなく、まともな人間を育てるコストが高いので、そのぶん、まともでない人間があふれていても社会のフォーマットが出力されるようなテクノロジーにコストをかける」(宮台真司(神保哲生、東浩紀ほか)『ネット社会の未来像』春秋社、2006年、18頁〜19頁)。
自分の理想は、大人と子どもがもっと気楽にかかわれる社会であり、(公)教育による調律された関係は、なんとも居心地が悪いように思えてしまう。そんな思想的背景のために、演劇人が演劇人としての自我を疑わずにできる数少ない仕事である学校でのワークショップに対して、前向きに取り組めない。
背に腹は代えられないということで、思想と妥協する日も来るかもしれない。ただ、芸術を、(公)教育に割り込ませることに意義を見出せていないこと、そして割り込ませなければ子どもと芸術を担う大人がかかわれない社会の現状を良しとしていないこと、そもそも芸術そのものへの第一印象が悪かったことが、自分にとって枷となっているようだ。
そして、芸術は私に他者を否定する方法をも教えた。つまり、分かるものと分からないものの差。もしかすると、センスあるやつとないやつ、という、松本人志以降の感覚なのかもしれない。これを過激化させると、こんなものはむしろ、「差別意識を醸成するので、排除すべきだ」、などという思想につながりかねない。マルクスを半分だけ読んで、「芸術は阿片」というべきところだろうか。
どんなものにも、嫌な側面はある。称賛されることがあるものには、軽蔑されることもある。できない人がいる、下手なものがあってはじめて、できる人、上手なものが存在を認められる。もちろん、われわれは〈阿片〉の効能も認めねばならない。阿片がなければ、コクトーは『声』を書けなかった。それでも、所詮はなくても生きていける〈阿片〉にすぎない。体育の授業のように、憎まれることへの自覚も必要であり、その自覚がもう少しマシな待遇を実現するための第一歩なのかもしれない。嫌ならやらなくていい。おれも嫌だったし。
シェイクスピアもイプセンも読んでないくせに、戯曲を書き始めた大学2回生の頃、たまたま部屋を整理していると、あのときの絵本を見つけた。「うわぁ」と思い、しかしなんとなく捨てずに置いていて、それからまた数年後、ネタとして友人に見せると、「絵は確かに下手だけど、キャラクターが眉毛とかで分かるように描き分けられていて、それなりにストーリー展開もしっかりしてるのでは」と言われた。読み返すと、確かにそうなっている。このコメントで10年越しに中学生の私は救われたような気がした。それは別に、無理に気を遣ってのものではなかった(と思う)。少なくとも、そういう言葉がかけられる大人になりたい。ただ、私は布教活動をしていないので、まだ落馬しただけのサウロなのかもしれない。啓示もない。誰か祈っててくれ。