「アップデート」と口にする者たちの傲慢について

 ここ最近、演劇そのものよりも X.com のほうが盛り上がっているように見える。自分が左派であるにしろ、右派であるにしろ、結局、利用者が少しでも長く滞在するように設計されているということは、とくに若者になればなるほどわかっているはずなのに、全員極度の依存症なのだろう、少しでも拡散された話題があれば、「我も一家言あり」と言わんばかりに、何かしらわかったふうの表明をする。もちろん、そんなふうにお気持ちを表明することには何の意味もないのだと虚無主義に陥るつもりはないけれども、いくらなんでも厳戒態勢で監視しすぎである。震災前の牧歌的だったあの頃を懐かしんで、ぼんやりしたことをときおり投稿してみるが、ただただ濁流にのみ込まれるばかりで哀しい。全体がぼんやりしていたからこそ角を立てることにも意味を見出せのだが、今はふらふらと歩くには角だらけである。しかしながら、劇作家として「最近の流行りの言葉」を確かめる場として、わずかながら有効であることには変わりはない。端くれであるとはいえやはり、格好悪いので「流行りの言葉」に支配されないように気を付けているのだけれども、言葉を生業としているのにもかかわらず、「流行りの言葉」を使ってしまう同業者を見るとたいへん残念に思う。

 例えば、「アップデート」である。私はこの言葉が嫌いである。「ああ、この人は『言葉』に鋭敏でないのだな」と思ってしまう。言葉を生業にしているのなら、この言葉にこびりつく、〈傲慢〉を感じ取ってほしい。この言葉が使われるときというのは、ほぼ例外なく「(お前らの、旧い価値観の)アップデート」ということなのだけれども、この言葉にはその辞書的な意味を超えて、「選択して、少し時間を置けば、誰にだって〈自動的に〉できるもの」という、若者側の傲慢を感じる。しかし、人間の考え方を機械のようにそう簡単に変えられないということは、少しでも想像力があればわかることなのだが、おそらく「アップデート」させる側にとって何の負担もないために、その重みがわかっていないのだろう。古い戯曲などを読むことを勧めたい。

 企業によって巧妙に隠ぺいされているが、すべての機械の「アップデート」にも限界がある。電子機器だと、ある程度古くなった場合、容量が足りないといった理由で「アップデートそのもの」ができなくなり、われわれはその機器をそのまま我慢して使うか、破棄して新しいものに買い替えるかの選択を迫られる。この点では、人間も機械も同じで、我慢するか、捨てるか、しかない。  人間にかんしていえば、より厄介なことに、iOS と Android 以外にも様々なOSが用意されていて、iOS と Android だけでもだいぶ大きな違いがあるのに(ちなみに私のスマホはどちらでもない)、それぞれが勝手気ままに「アップデート」していくつにつれて、物事への認識は、会話も成り立たないほどにどんどんかけ離れていく。

 少なくとも「アップデート」とかいう言葉を大事な場面で使ってしまう人には、そこに言葉を生業としているものとしての矜持はないのかと問いたい。流行りに乗ることを、ダサいと言うことは、資本主義への言語的な抵抗であった。いや、わかりやすい言葉だから、伝わりやすいから、と言われるかもしれない。しかし、その言葉の中身と、そこにこびりつく態度に気が付かず、「わかった気にだけなっている」のではないか。同時に流行りに乗ることが、今ほど危険なことはない。現在、自分の世界=タイムラインでのみ流行っているわけではないかどうかを確認することがあまりに難しくなった。かりに自分の世界でだけ流行っているのなら、そういう言葉を用いることは、他者の排除にほかならない。よく知られているように、言葉にはそういう機能もある。自分たちの共同体だけでしか使われない言葉を用いて、相手を孤立させる効果――。カタカナ語で、「あなたにはこの言葉自体に、馴染みがないかもしれませんが」という軽蔑の眼差しを含め、年長者を追い込もうとする言葉の暴力、というには「アップデート」はかなり一般化してしまったような気もするが、それでもまだ「アップデート」という単語にはその臭いが残存しているし、ここ最近散々批判されてきた、「リベラルの上から目線、腹立つ」の雰囲気を醸成した言葉遣いのうちの一つなのかもしれない。

 とはいえ、そうであったとしても、人口ボーナスの恩恵に与った年長世代を憐れむ必要は一切ない。どこかで鴻上尚史が書いていた「まあ、なんとかなる」の楽観で自分勝手やってきた結果が今である。ただし、「アップデート」などと「スマート」を装って言いつつ、現在行われているのは、野蛮で昭和的な「ぶっ叩いて直せ」「直らなかったら捨てろ」的な狂乱である。これが劇場で行われているのなら、まだわずかながらにでも希望を持つことができるのだが、令和の現在、すべては画面の上だけの出来事である。さらに現代は、あの頃の「なんとかなる」という楽観から、数十年かけて「どうにもならない」の嘲笑が世界を覆っている。  「アップデート」なんかできっこないし、無理やりさせたところで何かが解決されるようには思えない。もっとも理想的なのは、誰もが自分らしくそのままでいることなのだが、時代は進み、そういうわけにもいかない。こういう場合は、「一方が諦めて、他方に対話が成立していると思い込ませること」が最も簡単な解決方法である。利用者には違いなんて認識できないので(実際アップデートの前後で何が変わったか、われわれはほとんど理解していない)、画面の上だけ少し変えて(アプリのアイコンに丸みがかったりする)、お茶を濁す。とくに根本的な部分が変わったわけではないので、権力勾配のために、年長世代有利な状況が出来上がる。膠着を避けるには、「これまでの日本のサブ・カルチャーの文脈通り、多少の暴挙は認める」というバランス感覚しかないのかもしれない。

 「アップデート」以外にも嫌いな「流行り言葉」はたくさんある。「~と思っていてぇ↑」というのも周りを含めてみんな言いまくる。どこで誰から習ってきたのかしらないが、発言の論理構造が曖昧になるので、論理的一貫性が欠如しているときに便利なのだろう。「でもさ」といった会話上の逆接の接続詞が嫌われて久しい一方で、「とはいえ」はよく聞くような気がする。「それこそ」もよく聞くようになった。なんだよ、「それこそ」って。もっと使い時あるだろ。そう思うけれども、話の腰を折ってくるめんどくさい人と思われたくないので、あえて指摘しないでいる。そんなことを書いていたら、総理が憲法を「アップデート」とか言い出しているというニュースが飛び込んできた。議席のみならず、リベラルは言葉まで奪われた。1935年、菊池寛は日本が右傾時代になったのは、政党政治の堕落だけでなく、共産主義者の「妄動」と書いたらしい。しばしば指摘されるように、「歴史は繰り返す」を字で行くような状況に国際的に突入している昨今、われわれに可能なのは、繊細に言葉に向き合っていくことしかない。もし、ここで「繰り返される」と受身形で書いていたのなら、きっとそこには自らも歴史を紡いでいるという責任意識の欠如を見てみたりするなどしなければならない。

 もう少し、ここ最近の「アップデート」の使われ方について詳しく検証してみたいところだが、いろいろめんどくさいので、今はまだ感覚に頼るしかない。ただし、「アップデート」という言葉の軽薄さに対しては嫌悪感を示したい。こういうとき、「なんか違和感」という言葉も使われるが、これもものすごく卑怯な言葉遣いに思える。この言葉を使う者は、おそらく否定・拒絶したいがあくまで感情にすぎないので「もっともらしさ」の積み重ねとしての議論を予め回避しようとしているのだろう。対話をしたくない人が使う言葉である。制約まみれに感じるかもしれないが、むしろ制約しないと曖昧で便利な言葉にかまけて、何か言ったようで言った気分になるものである。そういう言葉を見抜き、削り取り、自らの言葉を独創性のあるものへと洗練させていかねばならない、とくに劇作家ならば。