劇団辞めてドイツ行く(59)野村眞人との対話――2025年8月4日
リドルのパンなんか食べてるからでしょ
野村がパンを好まないというのは、友人たちのなかでは有名な話である。パンの消費量が日本一といわれる京都にいて、かつヨーロッパで頻繁に活動しているのにもかかわらず、並々ならぬ拘りといえる。
ブリュッセルで敷地理君と、この話をしていたとき、敷地君は「リドルのパンなんか食べてるからじゃないですか?」と言い放った。私は「(リドルのチーズプレッツェルはうめぇだろ…)」とショックを受けたが、私と敷地君とは初対面だったので、とくに割り込むことなく愛想笑いだけしていた。
家なくなった件
ともに生活をすると、そのような細部まで他人を意識せざるをえない。2025年5月の1か月間、双方トラブルに遭い、われわれは共同生活を強いられた。日本のように次々と家を建て替える習慣がないのもあって、ヨーロッパ各地の家不足は深刻である。
ないものはない。どうしようもなかった。とりあえずわれわれは見つけた家で、共同生活をしながら、毎日議論し続けるという日々を過ごした。京都、演劇、ベルリンと文脈を共有しながらも、私と野村とでは視点が全く異なる。また彼は英語を主とし、私はドイツ語を主として情報を得ていたので、響きだとか語順をはじめとした文法上の問題とか、街でよく使われる表現だとか、あの場面のドイツ語は直訳するとおかしく聞こえるだとか、外国人としてベルリンの劇場にいる感覚だとか、そんな話を延々と続けた。気が付けば議論はまったく違う方向に転がって、京都の思い出から、ヨーロッパの劇場から見えるハーバーマスの言うところの公共(パブリック)圏の問題だとか、自らの創作の悩みだとか、これまでの人生の話だとか、これからの展望だとか、現在の仕事の話だとか、まるで60年代、70年代のような時間を過ごした。
ふつう共同生活をすると、不仲になるものだが、1か月という期間がちょうどよく、衝突もなく避難生活を終えることができた。同じ地平に立っているように感じてしまうが、彼は文化庁の新進芸術家の海外研修制度での滞在であり、自己資金で、バイトしなければならない私とは対照的な立場である。しかし、詳しくは書けないが、彼もトラブルに多数見舞われたようである。
正直、外国に古くからの友人がいるというのは、それだけで心強かった。海外で過ごしたことがない者ほど、海外にいるのに日本人同士で生活することに対して冷笑的に否定してくるものである。しかし、海外に出てみるとわかるのだが、同胞同士で助け合うのが、グローバル・スタンダードである。そのような冷笑が出てくること自体、日本人が海外に出て行くことの難しさを物語るものである。もちろん、詐欺まがいのことを持ちかけてくる日本人も少なくないので、警戒は怠るべきではないけれども、もし、今後海外に出て行く者がいるとしたら、このような冷笑など気にせず、助け合ってほしい。
1食1本の恩義
野村の作るメシは美味かった。ヨーロッパにいても、パンを食べずに、鍋で米を炊き、味噌汁を入れるなど、彼は食に強いこだわりがある。私も自炊できない方ではないが、手際の良さからして彼に任せるのが最善と判断して、食器洗いを担当し、さらに1食につき1本タバコを渡すということでまとまった。食材は折半である。ノイケルンにはトルコ・スーパーが多数あり、安くで野菜を手に入れることができた。なんやかんやで、一か月の食費は、100ユーロに収めることができた。
中庭を望むバルコニーの机で食事し、片づけてタバコを吸う。中庭の木々からは小鳥のさえずりが絶え間なく聞こえてくる。ともにトラブル続きであるにもかかわらず、ここで悠久の時を過ごしているような感覚にしばしば陥る。ときおり、思い出したかのように劇場に向かう。帰ってきて、テアタートレッフェンへの疑念を語ったりする。しかし、ピナ・バウシュもルネ・ポレシュは、面白かった。
なお、ベッドは一つしかなかったのだが、どういうわけか野村は1か月間ソファーでしか寝なかった。もちろん、ローテーションを提案をしたのだが、野村はソファーが身体にミラクル・フィットしたようで、応じようとしなかった。試しに横になってみると確かに、あのソファーの心地よさは異常であった。
そんなこともあり、われわれは価値のある1か月を過ごすことができた。お互い住処を見つけて別々になったが、以降も劇場で会って話したり、ケバブ屋に連行したりして過ごした。私はもうすぐ帰国してしまうが、彼の滞在は12月まで続く。私と違って、野村はあまりSNSを更新しないので、安否がわからなくなりがちだが、友人には、ベルリンに行くことがあれば連絡してみてほしい。
※本記事は野村の承諾を得たものです。これまでの記事に登場した N が「野村」であるかのように感じられたとしても、それは偶然です。