【ドイツ 演劇】Glaube, Geld, Krieg und Liebe(ロベール・ルパージュとアンサンブル作、ロベール・ルパージュ演出『信仰、金、戦争、そして愛』)――2025年7月20日 シャウビューネ劇場 Schaubühne

作:ロベール・ルパージュとアンサンブル Robert Lepage und Ensemble
演出:ロベール・ルパージュ Robert Lepage※
観劇日:2025年7月20日
初演日:2024年10月3日

※Robert は「ロバート」と発音すると思っていたが、『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』のウェブサイトでは「ロベール」とフランス語読みでカタカナが当てられていたのでそれにならった。

 今回のドイツ滞在は、シャウビューネ劇場が最後の観劇となった。ロベール・ルパージュは、カナダ・ケベック出身の劇作家・演出家である。日本でも『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』という作品を上演している。最前列で観劇することができた。今日はセリフがよく聞こえるなあと思っていたが、スピーカーの目の前だったのがその理由のようである。シモテ端の演技は見づらかったが、だいぶよい席から見ることができた。ランタイムは、285分。超大作である(私の観劇日は20分くらい終演が押して、日付を超えた。今後観劇予定の人は注意)。

 舞台上に、四つのサイネージがあり、それぞれトランプを映し出している。

Zu Beginn der Proben gab es keinen Text, keine Geschichte, keine Figuren, nur einen Gegenstand: ein Kartenspiel.

「稽古開始時には、テキストも、ストーリーも、登場人物もなかった。ただ、あったのは――トランプだけ」

 このサイネージに、1945 と表示され、物語がはじまる。教会に赤ん坊が捨てられる。シスターたちはその赤ん坊を育てることになる。子どもはアフリカ系だった。その子は愛され、成長し、やがて教会を出て行くことになる。ここまでの展開は早い。別れを惜しみつつ、大きな荷物をもって旅立っていく。最後にシスターの一人が、小さな封筒を渡す。その場で中を空けようとすると、止められる。その後、舞台はフランスへ向かう。日本の朝ドラ的世界観が凝縮されているのだが、場面転換がとても見事で圧巻だった。サイネージが光源となっていることによって、美術の出入りが闇のなかに消えていくように見えるのである。最前列かつ私の視力 1.5 で消えていくように見えるので、ほとんどの観客には消えていくように見えただろう。実際には、背景の幕が音もなく上下してそこから道具が出入りしているだけである。机や椅子だけでなく、ベッドのような大物もあったのだが、移動の音がないように処理されている。批評サイト Nachtkritik には「ブレヒトとネットフリックスとの結婚」„Eine Ehe zwischen Brecht und Netflix“ と書かれてあったが、その表現は的を射ている。

 同じくSchaubühne でカロリーヌ・ギエラ・グエン Caroline Guiela Nguyen の 『サイゴン』„Saigon“ と 『ラクリマ』„Lacrima“ を観劇した。これらにも映像など今ある舞台美術の技術がふんだんに使われていたものの、ルパージュによる本作のほうが、場面転換の動かし方が上手く、その瞬間々々を魅力的に感じた。『サイゴン』などは美術上は「場所が変わらない(終始、レストランだった)」ということが要点だったとはいえ、様々な時代を旅するという軸は同じである。ずっと同じ場所にいるのに、1945年から現在(2021年)までの様々な時代と、ドイツ、フランス、アフガニスタン、ウクライナなどいろいろな世界に行けたという印象が残るのは、ルパージュの作品だった。もちろん、その時々の中心人物がわかりやすいドラマだった、というのもあるだろう。

 なかでも第4幕は、私の記憶に強く刻まれるものだった。以下、朧気な記憶と付け焼刃の語学力をもとに書いていく。とあるゲイのカップルが子どもを持つことにした。そのためにエージェントに相談する。エージェントが言うには、まず、卵子を誰かに提供してもらい、人口受精させる。そして受精卵は、任意の国の女性に渡り(カップルはウクライナの女性を選んだ)、代理出産してもらう。法律上の都合で、女性にはチェコで出産してもらう。最後には、チェコで出産された子どもを受け取り、晴れてゲイのカップルは子どもを持つことができる、というものである。

 カップルのうちの一人が、かつての妻(はじめのシーンで捨てられた赤ん坊の孫)に、卵子の提供を依頼。説得してなんとか引き受けてもらう。これらの相談はすべてエージェントを介してオンラインで行われる。オンラインでのやりとりがあると「ああ、現代に来たなあ」という印象になる。ところが、子どもが生まれるタイミングでウクライナ進攻がはじまる。子どもはチェコで出産される予定だったが、ウクライナで生まれてしまったため、法律上エージェントができることはなくなってしまった。そこで、カップルは、戦争中のウクライナに自ら出向き、赤ん坊を引取ることにする。カップルは、また卵子提供してくれたかつての妻に頼み込んで、一緒にウクライナに来てもらうことにした。途中、精子を提供した、そしてかつての夫である男が、戦時下の国に行くことが怖くなり、動けなくなってしまう。バスの時間になり、彼を置いていかざるをえなくなる。

 待ち合わせ場所に到着すると、代理母ではなく、代理母の夫が赤ん坊とともに待っていた。代理母は、別れが辛くなるからといって、来なかったらしい。代理母の夫は、英語が話せないので、翻訳アプリを通してやりとりする。このやりとりのままならなさは、最初のオンラインでのやりとりのとき、コメディタッチに描かれるのだが、それがここで切実に感じられるようになる。

 避難警報が頻繁に鳴るなか、赤ん坊と子育て用のミルクなどを受け取って、さあ、帰ろうというときになって男が、ウクライナに残ると言い出す。彼は元軍人で、戦おうというのである。そもそも卵子を提供するだけの約束のはずだった女性は当然怒るが、彼の意思は固く、結局女性は赤ん坊を連れて一人去っていくことになる。

 移動中にバス・ターミナルや空港や飛行機の機内になったりする。飛行機から外を眺めるだけというセリフがない場面もあり、映画のような間の使い方であった。時刻表がロシア語になる。自分もフランス、ベルギー、トルコと移動するときに、掲示板の言語がドイツ語、フランス語、トルコ語になるのを見て、「ああ、遠くまで来たなあ」と実感した経験があって、勝手にここまでの旅の思い出を振り返っていた。それにしても、ゲイのカップルが無責任すぎる。作家として、確かに最後はこうするしかない、というのも理解ができる。言い換えれば、作中で「作家として」の部分がわずかに見えてしまった瞬間であった。女性ひとりが最後に子どもを「押し付けられる」ラストのほうがよいのは間違いがない。それは作劇上の〈正解〉である。もちろん、このラストについて、男が元軍人であることは、中盤の幕で説明がある。彼とは別の男がアフガニスタンに派遣されてからのPTSDに苛まれる、また別の物語である。クレジットに、作:ロベール・ルパージュとアンサンブル(von Robert Lepage und Ensemble)とある。この表記が、どこまで実態を反映しているのかは及び知ることができない。推測の域を出ないけれども、もしかすると、ラストが先に創られ、それを膨らませる形で、犬のマーカスとの思い出を語る軍人の幕が出来上がったのかもしれない。それでなくても、ルパージュの創作の仕方についてはたいへん興味深いところがあるので、関係者と接触することができるのならば、取材してみたいところである。

 冒頭の場面で、シスターが封筒を渡すのだが、実はこれがラストにつながっている。伏線というほどの大それたものでもない。ラスト、元軍人の男と女性が待っている間、その封筒に書かれていた内容について女性が語り始める。私は最初、シスターの一人が個人的にお金を渡したのだと思っていた。さすがに無一文ではなかったと思うが、少しでも足しになればということなのだろうと、私はそう推測していたが、実は、その内容は自らの出生にまつわる真実であった。一つの小道具が物語のはじめと終わりをつなげる。封筒の内容について語るとき、最初の場面のシスターたちが静かに優しく背後に現れる。『ベルリン・天使の詩』(独題:Der Himmel über Berlin、英題:Wings of Desire)に登場する天使のようだった。

 長い上演だったが、登場人物数に比してたいへん少ない7人の「アンサンブル」で賄われていた。もちろん、一人数役を兼ねる。場面転換は一部スタッフの力を借りながら、俳優たちによって行われた。「アンサンブル」Ensemble とは何だったのか。ドイツ語の辞書では、第一の意味として[小さな]劇団と出てくる。広辞苑には、少人数の合奏・合唱。また少人数の合奏団・合唱団とある。もとはフランス語 ensemble の、「一緒に、ともに、そろって」から来ているようで、ドイツ語では zusammen のほうがこの意味ではよく使う。ドイツで、それが演劇という文脈になったとき、「劇団」とか「その上演のときの俳優チーム」というニュアンスに転じているのかもしれない。学生劇団のときには、「後ろでまとまって踊ったり歌ったり演技したりする人たち」くらいの意味で使っていたのだが、厳密な使い方ではなかったようである。もちろん国や文化によって同じ単語でも意味は変わるものであるが、正規の演劇教育がほぼ存在しない日本から来ている場合、何が当たり前かということが、簡単に崩壊することにも慣れておかねばならない。観劇後に感想を言い合うことすら満足にできない。いずれの批評サイトも、アンサンブルの妙については絶賛で一致していた。ただ、物語がステレオタイプであるとの指摘は多かった。その点では『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』のほうが優れていたという記述もあったので、どこかで参照したい。

 ここまで、約70作観劇することができた。主にベルリンが中心だったが、デュッセルドルフ、ハンブルク、パリ、ブリュッセルでも観劇した。またベルリンではドイツのみならず、ポーランド、アメリカ、アイルランド、スイス、日本など世界各国の作品が規模の大小を問わず上演されていたので、間違いなく視野を拡げることができた。ドイツ語、英語の鍛錬もこれからさらに重ね、今後またドイツ上陸の機会を伺う。ありがとう、ドイツ。また会おう。

参考;

https://ontomo-mag.com/article/interview/robert-lepage

https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/20_hiroshima