【ドイツ 演劇】Alice im Wunderland(ルイス・キャロル原作、オリバー・フルリッチ演出『不思議の国のアリス』)――2025年6月19日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater

原作:ルイス・キャロル
企画・演出:オリバー・フルリッチ
観劇日:2025年6月19日
初演日:2024年3月2日

 オリバー・フルリッチ、四作目である。本作でゴーリキー劇場での観劇は最後になった。フルリッチの作品は、ヨーロッパ文明への基礎的な理解がなければ、何がシニカルなのかわからないことが多い。また、ベースにされている古典文学についても同様に筋くらいはわかっていなければならない。

 そうでなくても、日本だと苦手な人が多いと思う。今回も、青い服を着たオッサンがクソ長い屁をこいたり、ドイツ連邦議会に向かって、がっつり脱糞したり、全裸になってペニスを回転させたりする。ゴーリキー劇場だから、彼の作品がこうなっているという可能性もある。確かに、ヤエル・ローネンもゴーリキーでの作品(Slippery Slope)とシャウビューネでの作品(Bucket List)(いずれも作・演出だった)とで、質感がだいぶ違った。アンサンブルも客層も全く異なるので当然といえば当然なのだけれども、旧東ドイツ側に位置し、ベルリン州が芸術監督を任命する形式をとっているマクシム・ゴーリキー劇場と、旧西ドイツ側に位置し、公金が入るけれども運営は民間であるシャウビューネとで、最終的な出力としての作品も変わってくるのかもしれない。

 マクシム・ゴーリキー劇場では、ベルリンという街の状況を最も反映していて、「移民もの」(ポスト移民演劇と紹介される)が多数プログラムに含まれているのだけれども、フルリッチの作品はそれらとは毛色が異なるように映る。言うまでもなく、フルリッチの作品を私はベルリンではじめて観劇したのだけれども、何かに似ているような気がしていて、最近気が付いた。スロベニア出身の哲学者のジジェクのテキストを読んでいるのと似た感覚であった。

世界貿易センター攻撃をハリウッド製のカタストロフ映画という視点から見るとき、それは普通のサドマゾものポルノと暴力ポルノの対比に似ていないだろうか? 世界貿易センターへの飛行機襲撃は究極の芸術作品だ――こうしたカール=ハインツ・シュトックハウゼンの挑発的な発言における一片の真理が、ここにその姿を顕すことになる。こうして、世界貿易センターのタワー崩壊は二〇世紀アートにおける「〈現実界〉(へ)の情熱」の恍惚(クライマックス)を指し示していたとう理解が得られることになる。テロリストたち自身の主要な攻撃目標は現実の物的被害ではない。それはスペクタル的な効果を狙った攻撃だったのだ。

ジジェク(長原豊訳)『「テロル」と戦争――〈現実界〉の砂漠へようこそ』青土社、2003年、20~21頁。

 「東欧」や「旧ユーゴ」といった単語で、どうしても地理的に遠く感じてしまう〈われわれ〉は、ひとくくりにしてしまうけれども、歴史にしても、文化にしても多様で複雑である。ゴーリキーは、2025年4月から5月にかけて、アルメニア寓話(100 + 10 – Armenian Allegories)というプロジェクトをやっていた。オスマン帝国によるアルメニア人虐殺が作品のなかで語られていたのだが、そのような悲劇も枚挙に暇がない。ゴーリキー劇場の芸術監督のシェルミン・ラングホフが、そのオスマン帝国の継承国家であるトルコ出身であるということと併せて考えてみると、もう少し勉強してみたいと感じる(ちなみに2026年8月からの芸術監督もトルコ系ドイツ人のチャグラ・イルクÇağla Ilkである。またトルコ共和国はこれを、「虐殺」(ジェノサイド)と認めていない)。もとをたどれば、フランス革命やロシア革命といった乱痴気騒ぎ、あるいはナショナリズム、民族自決といった列強の戯言に付き合わされた結果である。ジジェクのテクストからも、フルリッチの作品からも、ドイツ観念論で醸成されてきたご立派な理念が、有効なのは、いかに限定的な現実においてのみであるということが感じ取れる。

 フルリッチの作品では、ヨーロッパ文明を象徴するような巨大な建築物がしばしば配置される。テキストはそれに見合うほどに影響力を持つ文学である。この二つのなかでひとりの人間が押しつぶされていく(押しつぶされてきた)というのが、おそらく彼らのリアリティなのだろう。人間には生身の身体があり、必ずしも建築物や理念とか超越論的観念論に、いつでもフィットするわけではない。大陸合理論にしても、イギリス経験論、プラグマティズムにしても、それらは所詮、限られた文化圏から生み出されたものにすぎず、圏外の者にとっては居心地がいいわけではない。合わない椅子に長く座っていると腰が痛くなる。彼らがこのような身体感覚なのだとすれば、理解できる部分は増えるような気がする。いずれにしても、原作を日本語でもいいので手にとっておいたほうがよさそうである。

 あるいは、谷崎潤一郎が『陰影礼讃』を書くに至らせたような感覚を、フルリッチもジジェクも持っているのだとすれば、もっと距離が近くなる。確かによくよく考えてみると、『お國と五平』『鍵』『痴人の愛』の表現と、フルリッチの作風は共通するところがあると言えなくもない。文明論、文明批判といったところだけを抽出してみるのならば、谷崎潤一郎など、上演してみたりすることはないだろうか。さすがにないか。きっと三島由紀夫や川端康成なんかよりは気に入ってもらえるような気がする。