【ドイツ 演劇】Frau Yamamoto ist noch da(デア・ローアー作『ヤマモトさんはまだいる』)――2025年6月17日 ドイツ座 Deutsches Theater

作:デーア・ローアー Dea Loher
演出:イェッテ・シュテッケル Jette Steckel
観劇日:2025年6月17日
初演日①:2024年9月12日(シャウシュピールハウス、チューリッヒ)
初演日②:2024年9月12日(あうるすぽっと、東京、東京演劇アンサンブル)

 奇妙なタイトルである。『ヤマモトさんはまだいる』。作家のデーア・ローアーが本来は(たぶん)、東京演劇アンサンブルのために書き下ろした新作なのだが、結局チューリッヒでも同じ日に上演されることになったらしい。時差の関係で、厳密な初演は東京演劇アンサンブルによる上演になった。ドイツ現代演劇を代表する作家である彼女の戯曲は、公家演出の翻訳・ドラマトゥルクの三輪玲子先生による日本語訳が複数出版されている。積読が増えてしまった。即座に検索可能な時代になったために、物理積読に加えて、エア積読も増えてしまう。世はまさに大積読時代である。

 今回の滞在では、劇作家に注目することはあまりできなかった。演出のほうが触れやすかったからである。ドイツで、今上演されている戯曲を読むということが、これほどまでに難しいとは思わなかった。もちろん、私の個人的な問題もある。というのは、この短い滞在で本を買っても読み切れず、ただ荷物になる、ドイツ語がまだ覚束ないので読むのに時間がかかる、お金がない、など、全部私が悪いのだけれども、どうしても異国の地では演出にばかり目が向いてしまうのは仕方がないのだろう。

 私ですら事前に知っていたテアター・トレッフェンでは、注目すべき10の「演出作」(Inszenierungen)が選ばれるが、このデーア・ローアーが1998年と2008年二度受賞している、ミュールハイム劇作家賞(Mülheimer Dramatikpreis)は、演出ではなく、劇作家に与える賞である。厳密には、旧称が Mülheimer-Dramatiker-preis つまり、「ミュールハイム/劇作家/賞」で、現在の名前がMülheimer-Dramatik-preis つまり「ミュールハイム/劇文学/賞」(直訳)である。今回は叶わなかったが、今後ミュールハイム演劇祭(Mülheimer Theatertage)にも行ってみたい。関係のないことだが、この「演劇祭」という訳語は少なくとも辞書上は正確ではない。「ベルリン演劇祭」と紹介されているテアタートレッフェンもそうだが、混乱するので、原題をより正確に反映した訳語に誰か変えてほしい。

 「ポストドラマ」というものに対して、決まった姿勢を持たずにドイツに来てしまった。自分が戯曲を書くときは、形式としてはオーソドックスという意識で、演出でも「ポストドラマ」に類するものには取り組んでこなかった。アイナー・シュレーフ Einar Schleef の『ニーチェ三部作』に関心が出て、上演しようと思い、訳者の平田栄一朗氏に連絡をとるところまで行ったのだが、結局資金が確保できず、実現に至らなかった。一つでも演出家として取り組んでいれば、何かもっと見えるものがあったような気がするので、どうにかして機会を得たいと思う。

 それでも、ドイツに来てしまって、もちろんこれ以前にもいろいろ観ている。例えば同じドイツ座で観劇した、サラ・ケイン『渇望』 “Crave”(ドイツ語の題は„Gier“)がある。情けないことを言うが、ポストドラマ戯曲のほうが文脈への依存度が低く、ベルリナー・アンサンブルで観劇した„Drei Mal Leben“ などより、伝わるものがあるような気がする。ここにくるまでごちゃごちゃ書いていることから、もしかしたら察している人もいるのかもしれないが、「よくわからなかった」という漠然とした感想しか得られなかった、というのが正直な感想である。しかし、それで終わっている場合ではないのでどうにか書いてみたい。

 ネット上で、登場人物と、冒頭のト書きを読むことができる。

„Je nach Lesart können die Figuren jeweils nur in einer oder in mehreren Szenen erscheinen, wodurch sich unterschiedliche inhaltliche Zusammenhänge und Assoziationen ergeben.“

「解釈によっては、登場人物は、一つの場面にだけにしか現れないこともあれば、より多くの場面に登場することが可能であり、それによって、様々な内容上の文脈や連想を生む」(拙訳)といったところだろうか。こういうト書きは個人的には嫌いなので書かない。不勉強で野蛮、詩的感性に徹底的に欠けている私は、「ポストドラマって書くの楽そうでいいよな!」という意識を、今日まで払拭できないでいる。しかし、同じような印象を、フォルクスビューネで観た、ルネ・ポレシュ„ja, nichts ist ok“ や先に述べたサラ・ケイン„Gier“ や同じくドイツ座で観たイェリネクの„Angabe der Person“ には持たなかった。この印象の差について考えなければならない。

 今挙げた三作との決定的な差は、作品の中心が明確かどうか、ということなのかもしれない。タイトルだけ読むと、たしかに Frau Yamamoto (ヤマモトさん)という人物が中心にあるように感じるのだけれども、演出ではもっと視界がバラけているように感じた。冒頭のト書きの副文における wodurch 以下の「文脈や連想を生む」という効果が私のなかでは活きなかったということなのだろう。„ja nichts ist ok“では、一人芝居だったので、一人の俳優に集中していればよかった。„Angabe der Person“ も、一人の人物が三人に分けられていることは明白で、舞台の中心にあった家とのかかわりから、〈彼女〉の暮らしに思いを馳せることは容易であった。

 「お前がバカなだけだろう、ドイツ語勉強しろよ」と言われれば、何も言い返すことができないのだけれども、今の自分にとっては少なくとも、他のポストドラマ作品との比較を通じて、なぜ響かなかったのかを確かめることが重要である。この戯曲には、いま挙げた作品とは大きく違う点があって、二人一組の会話がたくさんあったということである。つまりそれは、少なくともその短い瞬間にだけかもしれないが、文脈に依存した場面が続いている、ということである。一方がこう言ったので(あるいは言ったのに)、他方がこう返す。文脈というよりは、行間なのかもしれない。もちろん、先に挙げた作品にそれがなかったわけではない。おそらく、会話がを含むが、連想を生むことがあるというシームレスな枠組みが、私に苦手意識を思い出させたのだと推測できる。

 ポストドラマ「演劇」というよりは、ポストドラマ「戯曲」に取り組むという課題が今回の観劇で確認することができた。あれこれ定義がある。しかしながら、理論より作品を読むことのほうが重要である。『詩学』が作品のあとから書かれたことを思えば、このことはアリストテレスのときから変わらない。最近の流行りをまとめて、「不条理演劇」とか、なんとなくお名前シールが貼られてきたのである。日本の戯曲は、明治時代から時代順に読み進めることにしていて、今井上ひさしと別役実まで来た。この二人、作品点数多すぎである。井上ひさしが最近やっと岸田賞を受賞した。これは続けるとして、ドイツの現代戯曲を、最近のものからさかのぼる形で読んでみるかもしれない。(金に余裕が出たら)。