劇団辞めてドイツ行く(58)日本の俳優たちへ――2025年7月21日

ベルリナー・アンサンブル、休憩中の衝撃

 2025年6月末のこと。ベルリナー・アンサンブルでブレヒト作『三文オペラ』を観劇した日に、私は衝撃を受けた。これは作品の内容にかんしてのことではないのだが、「ドイツで驚いたことトップ・スリー」には確実にランクインする体験であった。

 ブレヒトが創立したベルリナー・アンサンブルで、そのブレヒトの作品、そのなかでも最も有名なもののひとつである『三文オペラ』を観るという体験は、それだけでわくわくさせるものがある。けれども、そのようなことよりも、私の記憶にこの一年のなかで、最も深く刻まれた瞬間は、休憩時間中にタバコを吸いに外に出たときに訪れた。

 劇場の外に出て、タバコを吸う(ベルリンの屋外、喫煙率高いので苦手な人は注意)。ドイツの劇場では休憩中に客席に残るものはごくわずかで、ほとんどがロビーとか、喫煙所とか、劇場にあるカンティーネ(ドイツ語で食堂のこと)で飲み物を買うとかいった行動に出る(トイレ行きたくなるので直前の飲み物、とくにコーヒーはおすすめしない)。そして一緒に観劇しにきた友人同士で、ここまでの感想をシェアする。この日は一人での観劇だったので、私は一人でタバコをふかしていた。ベルリナー・アンサンブルの目の前にあるブレヒト像がある公園のほうを眺めていると、バスローブにサンダルという姿の女性が目にとまった。顔を見て、『三文オペラ』に出演していた俳優であることがすぐにわかった。私が驚愕したのは、その俳優がリードを持って、犬を散歩させていたことである。もし私の横に一人でも友人がいれば、育ちの悪い大阪人の血が騒ぎ、大きな声で指をさしながら、「イヌ連れとるやん!!」とツッコミを入れるところだった。危なかった。

観客から見たドイツの俳優たち

 劇場に飼い犬を連れてきているだけでも珍しいのに、20分もないくらいの本番の休憩時間中に、観客もたくさんいるなかで、犬を散歩させている様子を思わず私はメモしてしまっていた(「休憩中にイヌ散歩」と書いてある)。そしてもし、日本で俳優が同じような行動をしたとしたら、その俳優はどういう目を向けられるだろうかと考えた。あまりポジティヴには思われないような気がする。このような姿は、ドイツにおける演劇のあり方を如実に示すものであり、非常に重要なことなのだが、学者たちによる論文には書かれていない。劇場や作品の紹介、上演分析、翻訳あたりが関の山であろう。渡独前にいろいろ読んだのだけれども、このような文章ばかりでは俯瞰的な視点は得られても、虫瞰的な観点を持つのは難しい。最初に書いたような風景以外にも、日本の俳優とドイツの俳優、そしてそれぞれの観客では、演劇に対する姿勢が根本的に異なると感じられることが無数にあった。そこで、2024年9月からベルリンの劇場を中心にドイツ語を学びながら観劇してきた身として、これを報告し、日本の俳優たちがどう感じるのか聞いて回りたいと思った。
 なお、脱線するわけにはいかないので手短に書いておくけれども、ドイツの社会には犬が深く浸透しており、百貨店や電車、カフェなどに連れて入っていいことになっている(ダメな店もある)。だが、そのためには、飼い主と犬の両方が超えるべきハードルがあり、「犬税」というものもあるらしい。このハードルを超えた犬たちは総じて大人しく、礼儀正しい。周囲の人に近寄っていくことはほとんどない。少し寂しい。

レパートリー制 VS 消費行動

 犬は少し個別的すぎる例である。ドイツの劇場を日本の演劇と比較して特徴づけるものとしては、レパートリー制が挙げられる。レパートリー制のメリットはたくさんある。観客として見れば、人から「この作品よかったよ」と聞いてからでも、観に行くことができる。初日が空けると即座に Nachtkritik などにレビューが挙げられる。これを読んでから予約しても遅くない。もちろん、即予約しないと観劇できなくなる作品もあるが、すべてではないし、それだけの人気作は10年以上再演されるレパートリーになるので、いくらでも観劇のチャンスがある。例えば、シャウビューネでトーマス・オスターマイアー演出の『ハムレット』を観劇したが、これの初演は2008年。日本では、2007年に発表された初代iPhone が、この2008年に上陸したということを思えば、いかに古い作品なのかがわかる。

 日本の小規模な公演だと、金・土・日と上演があったとして、金曜日の感想を聞けるのは土曜日で、明日の日曜日の楽日(ほぼ1ステージ)に劇場の座席と自分の予定が合わなければ、もう二度とその作品を観劇することはできなくなる。ある程度規模の大きい作品になり、一つの劇場で1週間くらい上演があったとしても、こちらは一瞬で予約が埋まることが多い。日本では「再演」といっても、それはほぼ新しい企画であることばかりだろう。

 1年を通して、同じ作品の上演があり、作品によっては、10年以上上演され続けるという状況は、観客に生ものである演劇との付き合い方を教えてくれるような印象がある。少なくとも、レパートリー制が普及していない日本とは全く違う付き合い方になる。日本では、受け手も作り手も、演劇を〈消費〉する。持ち出し資金や安いギャラになると、作り手は自分自身も〈消費〉する。ここで私が〈〉をつけた、〈消費〉とは、そのとき、その瞬間に全身全霊をかける、という行動のイメージである。だから少しのミスも、いい加減さも、他の観客による少しの迷惑も許せない。少し前、隣席の観客のハンドクリームの臭いが迷惑だというネットでの投稿を見かけたが、正直閉口した。しまいには風俗店に入る前みたいに、爪やら口臭やらいろいろチェックされるのではないか。もちろん、国ごと、文化ごとにマナーというものがあるが、他者とすし詰めになることが一つの要件であるとさえいえる演劇で、果ては無菌室にいたるほどの過剰なマナー要求は、結果的に多様性を必要以上に損なうものである。

 俳優にとってみると(これは人から聞いた話だが)レパートリー制によって最も得をしているのは場数を踏める俳優である、ということらしい。確かに、ドイツの観客が素直に笑ったり、声を上げたりするという文化的背景もあるけれども、俳優たちが客席の雰囲気に応じて柔軟に対応する瞬間を数えきれないほどに体験した。この技術を得るのは、場数を踏まなければ困難だろう。さまざまな作品で場数を踏むのではない。「一つの作品を通して」場数を踏むという定点観測によって、昨日と今日で、「何が同じで、何が同じではないか」ということを、身体を通して知ることができるだろう。

 一方で、日本の演劇の多くは、とにかく「消費行動」の一種でしかない。「大量生産/大量消費」は劇場にも浸透しており、「東京は世界で最も新作が上演される街」とすら言われる。100均ショップのように、つねに新品だが、すぐに捨てられる。誰一人として、なぜこれが 100円 で買えるのか深く考えようとしない。考えてみたとしても、安さに惹かれてまた買ってしまう。100均の例を出したが、学生料金ならば、ドイツの演劇は、日本の演劇よりもはるかに安い。人に聞けばこれでも高くなったらしいのだが、学生料金ならば、わずか9ユーロ程度で、座席を取ることができる。9ユーロというと、1500円程度である。日本において、学生が1500円で観劇できる演劇を考えてみてほしい。

 私の周りにも、1年のうちでものすごい数の本番に出演し続ける俳優は少なくない。その場数の踏み方が全面的に悪だというつもりはないけれども、経験が過剰に多様すぎるということのデメリットは否めない。多様であることは、一見するとよいことのように見える。けれども、抽象的な言い方になってしまうが、この経験を積み重ねとして認識することを難しくする。私個人の意見を言えば、多様さとは別に、一つや二つ、定点観測する場を持ったほうが効率よく技術を蓄積していけるように思う。同じ場で、同じ演目をやり続けることを通じて、自身の身体の変化を感じ取ることが容易になるからである。かりに基礎がないところで、先月は中劇場、今月は小劇場、来月はカフェ公演のような形で規模をころころ変えてしまうと、自らの身体を確かめるのが困難になるかもしれない。

優劣ではなく、違い

 ここまで書くと、さも、ベルリンで観てきた演劇のあり方のほうが優れており、日本で観てきた演劇のあり方のほうが「劣っている」と言いたいように思われるかもしれない。事実、私以外で、「これからの演劇」を考える際に、海外(ほぼ欧米だが)の事例を持ってくる人々は、本音では「日本の演劇はいろいろな点で、欧米に比べて劣っているので、採り入れよう」と考えているように感じられる(もちろん、そうだとははっきり言わない)。これが正しいかどうかは、私にとって問題ではない。私がムカつくのは、このとき、彼らは自らを「海外を知る人」として特権化することである。そしてこのとき、日本人が好きではなさそうなヨーロッパの状況については言及しないほうがいいということになり、捨象する。そして言及しなくても、自分しか知らないので、これについてツッコまれる可能性は低い。そして私が、私費でベルリンに来たのは、彼らの特権をはぎ取るためである。そして、俳優の友人たちに、自分が見てきたドイツのような演劇の状態は、あなたたちにとってほんとうに望ましいものなのかどうかを聞いてみたい。

本番中のプロンプターとセリフ

 ドイツの演劇には、プロンプターがいる。本番中、彼らがどこにいるのかというと、多くの場合、客席の最前列の中央の座席である。彼らは手元明かりがついた脚本のバインダーを持っているので、彼らがプロンプターだとすぐわかる。

 まず、この時点で好意的でない印象を持つ人がいるかもしれない。客席の最前列の、中央の座席といういちばんいい席に、スタッフを座らせるとはけしからん、そう思う人が、日本では一人や二人ではないと思う。しかし、いいかどうかは別として、そこでなければならない理由があり、それは後述する。

 次に、これと関連してセリフについて。100人も入れないような小さな劇場でも、客席の後方にモニターがあり、そこにはセリフが映し出されている。俳優がこのモニターを見ながらセリフを言っていることがわかる瞬間が何度もあった。それでもセリフが抜けることはあって、そのときに、最前列・中央に座っているプロンプターが、場合によってはマイクを通じて、セリフを入れる。これは、演劇として未完成な状態で、そのようなものを観客に見せるべきではない、と考える人が、同じように日本では一人や二人ではないと思う。

 加えて、セリフが飛んだとき、もう完全に、「なんだっけ?」という身体になって、舞台上から舞台のカミテとシモテの上方にある英語字幕をのぞき込んでセリフを思い出そうとすることもあった。もしあれが演出なのだとしたら、意図をだいぶ測りかねる。

「何を大事にするのか」と「過密スケジュール」

 実際にどのようにベルリンの人々が考えているのかは、ベルリンの観客や演劇人に聞いてみなければわからない。ただ、こういう状況であるということは、少なくとも今の私でも報告することができる。察するに「演劇にとって大事なのはそこではない」という感覚と、「そうせざるを得ないだけの過密なスケジュール」という二つの理由があるのかもしれない。先に後者について聞くところによると、1週間のうち、木・土・日の夜に、別々のレパートリー作品での、カロリー消費が主役級の本番出演があり、本番の前には午後からの創作中の新作の稽古が入っている、というスケジュールになることがある。私も、1週間のうちに、一人の俳優を複数回、別の作品で観ることが何度もあった。何度も観ているうちに、単純接触効果というか、セリフが抜けまくっても、「まあ、今週たいへんやったもんな」と繁忙期に週5で入るバイトの後輩と対面しているような気持ちになって許せてしまう。

 「演劇で大事なのはそこではない」ということについては、実質1年にも満たない期間に観客として滞在しただけでは、正確に記述するのが難しい。ただ、「いつ、どんな状況でも、決められたことを決められた通りにやる」ということを日本人ほど美徳としていないように思えた。もちろん、「舞台とはナマモノである」という共通認識は、国を問わず、俳優のみならずすべての演劇人、すべての観客が持っている。けれども、この認識のうちには、「いつもと同じこと」と「いつもと違うこと」のしかるべきバランスというものがあって、日本では、どちらかといえば二つのうち、「いつもと同じこと」のほうに比重があると感じられる。

 ミュンヘンでクラシック音楽をやっている友人に、「日本でクラシック音楽をやっていると、楽譜通り弾くという点においては日本で教育を受けた者のほうが、かなり優れていることがわかる。それで結構ドイツでも仕事がもらえる」という話を聞いた。単純に彼女の技術が凄すぎるだけの可能性もあるし、クラシック音楽にも明るくはないけれども、ミュンヘンでそう言えるのには驚きだった。「決められたことを決められた通りにやる」人材を育てるというやり方は、旧態依然な教育手法としてしばしば批判されることがあるけれども、これはこれで、社会に必要不可欠な個性であり、そのほうが性に合っている人がいることは事実だろう。だから、安易に外国のやり方を取り入れる論調に私は全面的に賛同できない。われわれはそのような文化のなかに生きているということを、認識する必要がある。

 他方で、ドイツの俳優、そして観客の関係は、レパートリー制によって、それとは異なる方向に加速する。圧倒的な場慣れによるその日、今いる、観客を魅了する技術。身体の動きからして、俳優による遊びの部分が大きく残されているように感じられる演出。この技術を得ること、それを最大限活かす演出を可能にするのは、確かにレパートリー制で、それを楽しむためには「いつもと違うこと」が何なのかに注目することになる。10年以上、再演が繰り返され続けている作品だと、一部の俳優が、引退、産休、異動などなど様々な事情から、変更されることもある。出演しつづけている俳優も、年老いて変化する。そして観客も10年という月日のなかで、20歳の学生だったものが30歳になって、今や父・母になるなど、ライフステージが進むごとに、作品への印象は同じではなくなる。

優劣ではなく、違いとか言っておきながら

 解像度を粗くしよう。日独でのわずかな経験から、私は、ドイツの俳優たちと、日本の俳優たちの演劇に向かう姿勢の違いを感じ取った。率直に言ってドイツの演劇は、「雑に見えることがある」。決められたことを決められた通りにやることを、日本の演劇ほど美徳にしていない。セリフをぜんぶ覚えられなくても大丈夫なようにプロンプターとモニターで、保険をかけているし、この保険はよく適用される。本番中の休憩時に、観客のいるところで犬を散歩させている。日本の俳優たちの誰もが、そういう雰囲気になることをいいと思っているのか。いわゆる「プロ意識」とはいったい何なのか。一般に、ヨーロッパでは比較的きっちりしているとされるドイツですらこのような状況で、東欧になっていくと、もっと緩いところもあるらしい。日本というのは比較的、対応を細やかにしたがる文化である。自分がつねに客なら有難いが、仕事仲間になると「こまごましたことにいちいちうるさい」。電話一つとっても、「お客様が切るまで切らない」のがマナーとか言われる。

 私の問いかけは、「ドイツではこんな状況だったが、日本もこうなるべきだと思うか」ということに尽きる。「ヨーロッパ」というだけで有難がることをやめて、二つを並列させたときに、日本では、どのような環境整備をしていく可能性が考えられるのか。私の身近だと、ロームシアターなど、レパートリー制導入の試みはすでに実施されている。そこにはどんなヴィジョンがあるのか。漠然と、「レパートリー制はヨーロッパでやっているのできっとたぶん正解」と信じ込んでいはしないか。俳優やスタッフたちが、どんな生活を送っていることがわれわれの理想なのか。日本では、現状が全体として理想的だと思っている人は一人もいないだろう。この現状を考えるために、今回、誰に頼まれたわけでもないのに、勝手にいろいろ調べまわってきたわけである。

 少し前のこと。とある場所で、「これだけ多くの学生が演劇をやっていることに希望を抱きました。みんな続けてほしいと思います」という旨のコメントした先輩がいらっしゃった。私は、なんと無責任なことを言うのだろうかと思った。われわれは、大手を振って若い人々を受け入れられるような環境を作ることができていない。いろいろ取り組んでいこうというなかで、無責任体制で、いまだにいろいろな試みが進められようとしている。今の私にできることは「ドイツ、ぱっと見こんな感じだったけど、みんなはどう思うよ」と乱暴に投げかけるくらいである。ここで観察してきたことは、旅行でひと月滞在したくらいではわからないことばかりだった。長くいて、はじめてわかることもある。しかし、コロナが明けても、円安に歯止めがかからない今、狂気的なモチベーションがないと、ヨーロッパには旅行することすらままならない。今の20代~30代前半は、最もフットワークが軽い年齢のころに、コロナと円安に見舞われ、関心を持つ機会すら奪われた。想像力のあるまともな大人なら、彼らに機会をもたらす義務があるということがわかるはずである。先日、日独の偉い人がいっぱい集まる交流会に行ってきたが、そういう状況に対する危機感は薄いように感じた。持てる者は、持たざる者のことなど、考えもしない。異文化を知る機会が着々と失われている。これは回りまわって若者の保守化を加速させるかもしれない。知らない、見たことがないものに対して、人はいくらでも暴力的になれる。〈ヨーロッパ中心主義〉が意識化されることもない。惨めな思いをしつつも、ここにたどり着いた私はそういう状況に少しでも抵抗したいと思う。それで、「俳優」というぼんやりとした宛名を付けて、この期間中、見てきたものについて書いた。できるなら、これまで出会った俳優、作品をともに創った俳優、すべてに聞いてみたい。しかし近頃は、みんないろいろなところに散らばって、なかなか簡単に会ってゆっくり話すのも難しい。この記録によって、誰か一人でも、関心が出たり、何かのヒントになったりすることを、切に願う。

バイアスかかってるで

 ドイツの俳優は、フリーランスもいれば、劇場専属もいるが、日本のように、まったく俳優とは関係のない別の仕事を兼ねているという話は、今のところあまり聞かない。カナダでは、別の仕事を兼ねていることは多いという話を聞いた。言うまでもないが状況は千差万別である。欧米だとか、ドイツだとか、ヨーロッパだとか、このへんの表現を、あえて混同させて、揃えてこなかった。私が観てきた演劇は、ほとんどがドイツのなかの、ベルリンの劇場の、2024年から2025年、60程度の作品に限定されている、ということをどうか忘れないでほしい。冒頭の犬の件は、ベルリナー・アンサンブルでのことだが、セリフの件は主にマクシム・ゴーリキー劇場である。先輩諸氏から「海外ではね」という話を聞くとき、このあたりのイメージをぼんやりさせてツッコみにくくしていると感じることがある。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツでも違うだろうし、それぞれの街、それぞれの劇場に、それぞれの状況がある。ものすごく性格の悪いことを言えば、一般に、ドイツにいる日本人はドイツが良い国だと信じたいし、フランスにいる日本人も同じだろう。そうでないなら、帰国する。イギリス演劇の研究者は、イギリスの何かにポジティヴな印象を持っていたから研究者になったわけである。彼らの語り口にバイアスがかからないはずがない。私も人のことを言えた立場ではないが、なるべくこういう雰囲気に飲まれずにいたいというのは、渡独前から考えていた重要な意識であった。

 陰謀論っぽいことを言う人ほど、「色眼鏡なしで」とか「フィルター通さずに」といった表現をする。これを言うと、まるで自らが提供する情報が中立であるかのように聞こえてくるので、非常に巧みである。しかし、「色眼鏡なしで」世界を観ることなど、絶対に不可能である。「われわれは、すべてを見渡せる神のポジションから物事を観察することができない」。私の言っていることが一切の誤りを含まないはずはない。永遠に正解が与えられることはないというマゾヒスティックな状況に耐えながらも、それでも何か書いて残していくという取り組みを通じて、自分のみならず、多くの人の今後につなぎたい。

 私自身にも課題が無限にある。それなのに、こんなに長い文章を書いてしまった。駄文を最後までお読みいただきありがとうございました。この記録はいつも私個人のストレス発散を主目的としており、構成などあまり考えず書いております。読みにくい点も多々あるかと思いますが、それでもよろしければ今後もお付き合いください。会う人会う人に、「読んでるよ」と意外にもお声掛けいただくことが多く、たいへん励みになっております。もうすぐ帰国します。向こう1年は京都にいる予定ですが、旅は予告なく始まり、予告なく終わるかもしれません。それでは、また。