【日本 演劇】KITTY(市原佐都子『キティ』)――2025年5月18日 Théâtre Les Tanneurs レ・タヌール劇場(ベルギー、ブリュッセル)※クンステン芸術祭 Kunstenfestivaldesarts
作・演出:市原佐都子
観劇日:2025年5月18日(レ・タヌール劇場、ベルギー・ブリュッセル)
初演日:2025年2月17日(ロームシアター京都、日本)
「がっかり」の正体
久しぶりに、日本語の演劇を観ることができる。言葉が部分的にしかわからないという負担のなかでベルリンの演劇を観続けていて、ようやく自国語で構成された作品の観劇を通じて、自身の感性の変容を感じとることができるかもしれない――うすうす事前の情報からわかってはいたのだけれども、構成要素としての「日本語」は、本作品のなかでマジョリティを占めているわけではなかった。ただし、この身勝手な「がっかり」は、個人的なものにとどまらず、本作の根本的な限界と地続きであるように感じられた。さらにその「限界」は、市原佐都子作品(今回小生は、はじめて観劇した)を越えて、〈現代の日本の若者〉の脱身体的コミュニケーションのあり方の問題にまで拡張しうるのかもしれない、などと考えていた。
抜け殻の赤
入場すると、うんざりするような赤い照明である。赤いネオンは、欲望を喚起する。この赤色が作品全体を規定しているので、この作品の主題は、欲望であることが明らかである。ただ赤色が単に欲望を表すということはそれほど普遍的なことではない。今日ほとんど忘れられているのだろうけれども、赤色といえば共産主義である。いつのことだったが、大学生を息子に持つ母親は、「アカに染まるくらいなら、桃色に」と願ったらしい。「共産党員(=アカ)になるくらいなら、色欲(=桃色)に溺れていたほうがまだマシ」という意味である。しかし、ソ連も崩壊して久しい今日、赤色が政治的意味を持つ時代はとうに過ぎ去り、一般社会では、赤色は差し色、アクセントカラーに収まり、欲望を喚起する機能としては、SMプレイの器具で頻繁に使われる程度のものとなった。
抜け殻のようになった赤色に包まれながら、録音されたセリフ、それも日本語、広東語、韓国語をコラージュしながら、俳優たちの動きとしては、ちぐはぐな「家族の食事」があったり、OLの話があったり、ウルトラマンと怪獣をごちゃまぜにしたようなパフォーマーが冷蔵庫から飛び出して着たりする。ここで起きたことを、順に書く気になれないでいるのは、ただ各場面がひき肉のように切り刻まれてあるだけで、最後の大きな風船で、ただ視覚的に無理やり統一させただけかのような印象を受けてしまったからである。
分離することと、二つあること
一つの身体が担っているはずのセリフと身体表現を、別個の物体から発させる場合、強度ある表現を実現するためには、二つの選択肢しかない。一つは、徹底的な様式化である。これは例えば人形浄瑠璃である。もう一つは別個の物体であることに、納得がいくだけの意味を付すことである。こちらは例えば主従の関係で二つの物体(身体)を結び付けることが挙げられる。この二つを取らなかった場合、つまり本作がそうなのだが、ただ二つの物理的現象(動く身体とただの声)があるのみとなる。一つだったものが、引き裂かれていることへの説明を少なくとも私は受け取ることができなかった。ここでは、ただデリダの言葉を反芻するだけで済むように思う。
「わたしが自身とひとつであるのではないがゆえに、わたしは他者と語ることができるのですし、他者に語りかけることができるのです」
―――ジャック・デリダ
日本語、韓国語、広東語が作品のなかにあるだけではなく、海外公演ならではの状況であるが、オランダ語、フランス語、英語の字幕も入ってきて、情報量は過多を越えて混沌に至る。だが、そのすべてが、ただ複数置かれてあるだけで、まったく関係することもない。それは例えば、今はもう個室DVD店にその命脈を保つのみとなっているが、ほとんどアンダーグラウンドな世界になってしまった、アダルトビデオの陳列棚ような血肉がむき出しにされた、人によってはその目的であったところの興奮を通過して、吐き気を催すようなあの情景に近い。言葉と身体は、源が同じだったとしても、それぞれ別のものだが、しかしきっとどこかに源があって、それが何なのかは誰にもよくわかっていないけれども、その源は、数少ないパフォーミング・アーツの原資である。本作では、それがただまるごと消去されている。「演劇を含めて私たちが何を『自然だ』と感じているのかに対して何重にも揺さぶりをかけ」(高嶋慈)られることはない。これに揺さぶりをかけられる者は、相当〈脱身体化〉された世界に住んでいる違いない。この高嶋のレビューも、そして「最終的には、「私たち」の現実に限りなく近づく。このような市原の現実の記述法は、演劇史的に言っても驚くべき境地である」という内野氏の評も、「演劇史の更新」という相馬氏の言葉も、私にはアダルトビデオなみの誇大妄想としか読めなかった。作家を含めて、誰一人として、現実の空気を吸っていないのではないか。
〈経験の貧困〉は〈表現の貧困〉を負わなければならない――太田省吾
性や食べること、そして暴力といった、身体性を強く伴う題材であったにもかかわらず、どうしてここまで迫りくるものがない、あるい説得力がないのか。あらゆるものが、あくまで「選び取られたことがわかる〈表現〉」にすぎなかったのかもしれない。これももしかすると、「表現」と「そのもとになったもの」が、別個のものとして存在しているという点に尽きるのかもしれない。それではなぜ、こうまで徹底的乖離をしているのか。俗説らしいが、最古の産業ともいわれる性風俗産業には、その重みの分だけ、そしてその文化圏ごとに、〈絶望〉と〈不条理〉がある。そこから露悪趣味的な笑い(AVのエキストラの件など)を生み出すことは簡単にできるが、少しでも前に進むと同じ人間とは思えない、あるいは人間を人間として見ていないような〈絶望〉があり、それでも「そこそこ死なないで生きていけてしまう」という〈不条理〉がある。そしてこれは、運よく深くこの産業にかかわらないで済んだものたちにとっては、恰好のエンタメである。しかし、本作はエンタメにもなりきれず、結局のところ覚悟なきままに問題の上澄みだけをさらっておもちゃにしているように見えてしまった。ナタリーの記事のなかで、作家は韓国でリサーチをしたようなのだが、リサーチ対象について、作家・アクティビストだけに言及があり、実際のセックス・ワーカーが挙がっていない点にも頷ける。現実の身体から発せられる声や言葉が、作品に反映されていないとしか思えないからである。〈身体の貧困〉はつまり、〈経験の貧困〉であり、それは〈表現の貧困〉を負う。太田省吾がすでに2004年には指摘していたことをまざまざと具現化する作品だった。
こうした演劇作品における〈脱身体〉的傾向は、日本では今後いっそう強まっていくだろう。オンラインでしか会ったことのない友人のほうが多くなっていく。慣れてくると、小窓から見ただけで、相手のことをわかったような気になるのだが、いよいよ実際に会ってみると身体の持つ情報量に圧倒される。この感覚を面白いと感じられればまだ軽症だが、現実には身体が煩わしいと思うことのほうが多い。人間関係に問題が発生すれば簡単に「ブロック」できる。インターネットが伝えられる情報量はいまでもまだまだ軽い。こうした事実を直視する役目が、今日の演劇に残されたわずかな可能性なのだけれども、結局太田省吾が危惧したように、〈経験の貧困〉が〈表現の貧困〉を負うような事態に今まさに至っている。これはおそらく、強固な制度を作ることにほぼ失敗し、特定の作家に依存し、そのときどきの身体感覚に任せて演劇を作り続けてきた20世紀の日本の小劇場演劇の末路なのかもしれない。
ただし、まだ身体そのものも、身体が持つ意味もまだ無くなることはない。自分自身、成果らしい成果も挙げられていないけれども、劇場だけでなく、生活の些事にいたるまで、実際に自分の身体を持って来ないとわからないことがこれほどまでにあったのかと狼狽え続ける日々である(ドイツがネット後進国すぎるというのも多分にある)。こんなことを言いつつ、ベルリンでも出不精癖が直らず丸一日、家にいたりしてしまうが、〈脱身体〉を越えて、〈非身体〉的表現と、演劇の食い合わせの悪さを目の当たりにしたので、せめて散歩にでも出てみようと思った。ブリュッセルも、1時間歩いて中心を離れてみると、華やかな世界の裏側を簡単に見ることができた。金がなくても、とにかく歩き、見ていくだけでもどこかに、何かがあると信じよう。書を捨てて、町へ出てみると、「町に出たってなんにもないさ」と屁理屈をこねられるのだが、しかし唐十郎に出会えたりするものである。
参考;
https://natalie.mu/stage/pp/kitty
https://artscape.jp/article/33908
https://digital.asahi.com/articles/DA3S16164496.html
https://twitter.com/somachiaki/status/1891519213598060745
ジャック・デリダ、ジョン・D.カプート(高橋透、黒田晴之、衣笠正晃、胡屋武志訳)『デリダとの対話ーー脱構築入門』法政大学出版局、2004年。
太田省吾「劇場と貧困なる経験――〈特集〉劇場と社会」『舞台芸術』第5巻、月曜社、2004年。