【ドイツ 演劇】Unser Deutschlandmärchen(ディンチャー・ギュテュテア Dinçer Güçyeter『われらがドイツのお伽話』)――2025年5月13日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater ※テアタートレッフェン ※Theatertreffen
翻案・演出:ハカン・サバス・ミチャン Hakan Savaş Mican
原作小説:ディンチャー・ギュテュテア Dinçer Güçyeter
観劇日:2025年5月13日
初演日:2024年4月6日
テアター・トレッフェンの今年のテーマは、「オカン」なのかもしれない。『ベルナルダ・アルバの家』と本作を見てそう感じた。一時こう考えたものの、どんな演劇でも、物語になると「オカン」と「オトン」からは逃れられないものなので、ただの偶然の可能性のほうが高い。結局三作しか観劇できないので全体を把握することは不可能である。「10作の注目すべき演出作」と題されているだけなので、そもそもすべて観劇することは、トレッフェンにとって重要ではないとも考えられる。
このテアター・トレッフェンの期間中、この10作が必ずしもフェストシュピーレの劇場 Das Haus der Berliner Festspiele で上演されるわけではない。ルネ・ポレシュの Ja, nichts ist ok とフローレンティナ・ホルツィンガーの Sancta はいずれも Volksbühne フォルクスビューネで上演される。後者の初演(2024年5月30日)は、シュヴェリーンのメクレンブルク州立劇場であった。そして本作は、マクシム・ゴーリキー劇場で初演され、トレッフェンの期間中もマクシム・ゴーリキー劇場で上演される。少し前からプログラムにはあって、ウェブサイトやゴーリキー劇場に行くたびに、タイトルを目にしていて、事前に観劇できたのかもしれないのだが、なんとなく後回しにしていた。
Unser Deutschlandmärchen と聞いて、これまでにゴーリキーで観てきたクリスチャン・ヴァイゼ演出の『カルメン』(CARMEN)とか、『臣下』(Der Untertan)とかのイメージを持ってしまっていたが、まったくそういう外形ではなかった。Unser (=「私たちの」) の「私たち」とはいったい誰のことなのか。同名の小説は、別の劇場でも演劇化されているようであった。初版は2022年11月8日でミュンスター劇場で、2024年11月2日にルース・メンサ Ruth Mensah 演出があったようである。また今年2025年1月には、アンティゴネ・アクギュン Antigone Akgün 演出で、こちらは翻案されている。
開演前のアナウンスもなく、唐突に暗転する。シモテに棺が置いてあって、カミテにドレスをみにまとい、ヒールを履いた男が登場する。息子のようである(Taner Şahintürk)。「何が言えるのか、わからない」――用紙してきたであろう紙をとりだして、別れの言葉を読む。しかし、男は小さく丸めてしまって投げ捨てる。幕が上がって、バンドの生演奏と女性(Sesede Terziyan)の歌とともにはじまる。ケバブ屋で聞いたような歌である。「1979年」と映像で表示される。以降、1985年、1986年、1990年、2004年、2024年と字幕で年代が説明されるので、俳優が演技で明示しなくても今いつごろなのかすぐわかるようになっている。フェードで入るので、今が何年か「気づく」という感覚になった。
歌っていたトルコ人女性は、アッラーではなく、マリアに「子どもがほしいのです」と願う。ここはふつうに、カミテの斜め上からのサス的な明かりに向かって言う。いちおうシモテ側の空にはアッラーがいるようでる。Verzeihen Sie mir, Allah. というところで笑いが起きるのは、宗教的バックグラウンドありきのことだろう。信仰心の薄い日本人には論理的に理解できても、共感するのは難しい。そうすると、映像で子どもの写真が人物には気がつかない体で降ってくる。演出は、終始ローネンのようにポップな印象だった。どこかの批評文に「シャウビューネにローネンを送り出したが、それでもゴーリキーは大丈夫!」的なテキストが書いてあった。
そうして授かった子どもは少しずつ成長していく。父親の影が薄いこと(登場しない)に対してはキリスト教の有名な話を思い出さざるをえない。
DER Vater!! DIE Mutter!! DAS Kind!!
(「父」は男性名詞、「母」は女性名詞、「子」は中性名詞で、冠詞の主格 Nominativ がそれぞれ Der, Die, Das となる)
DIE Türkei 「トルコ」は女性名詞
Ich bin in Berlin. Aber ich komme aus DIE Türkei.
Nein, ich komme aus der Türkei!
(aus のあとは与格 Dativ なので die der der die でderとなる)
ich komme aus der Türkei!
Sehr gut!! Noch mal!!! DER Arzt, DIE Bank…..
それは複数形!! Plural!!!
ドイツ語の授業の場面はすごく笑った。語学学校そのまま、というか、ゴーリキーの客席にも同じようにドイツ語の授業を受けてきた人たちがたくさんいたようである。
「きみは労働者階級の子なんだよ…」
テアタートレッフェンのインテリ的無垢さ加減に少し辟易していたのだが、本作はそういう問題にも果敢に挑んでいるように感じられた。むしろ、現在のマクシム・ゴーリキー劇場はそれが持ち味なのかもしれない。「ぼくは演劇をやるんだ!」という息子に対して、母ファトマは冷たく現実を突きつける。それが息子のためだと信じている。工場で働くので、新品のツナギを用意する。
>>"Das passt nicht…"<< (ぼくには)合わないって
>>"Das passt!"<< 合うって!
ここだけ取り出すとおよそ会話になっていないセリフだが、それなのに、ものすごくリアリティを感じるセリフである。このツナギには、主人公がはまらなければならない〈規範〉が含意されている。それを母親が愛をもって持たせるというのも、どうにもならない、動かしがたい現実である。
また、母親が子どもを連れ立って、お金持ちのトルコ人たちに、お金を借りに行く場面があって、そのとき客席が明るく照らされる。つまり、観客は「お金をたくさんもっているであろう、あなたたち、演劇が観られる立場にある人々」である。ここで、unser Deutschlandmärchen のうちの unser が指し示すことがなんとなく見えてくる。「unser =わたしたち」というとき、意識のうちで、どこまでが含まれるのだろうか。冠詞一つも油断ならない。
ゴーリキーが客席に何もしてこないはずはない。観客に対して何もしなかった作品なんてほとんどなかった。最前列でなくても、まったく安心ができない。正直、まだまだドイツ語の覚束ない自分にとってゴーリキーに行くことはとても勇気がいることである。しかし、こういう不安は自分にとって望ましいものなのかもしれないと最近思うようになった。「客席で安心できない」というのは、ある種のマゾヒスティックな期待を呼び起こす。きっとドイツ語がいくらわかるようになっても永遠に不安なのだろう。私にとって不安だったとしても、これはもしかすると、客席と舞台との信頼関係の顕れともとれる。SMプレイというのも本来はそういうものであった。今回はその意味ではヌルかったのかもしれないが、理念的にはこの演出は、とても重大な問題を突いている。歌を歌ったり、ダンスしたり、お金持ってるでしょ!あなたたち!という、母親の視線がとても印象に残った。
他の演出作も観てみたい。というか、原作を読んでみようか。もしかしたら、70年代以降のドイツの一面がつかめるかもしれない。まだまだわからない部分も多かった。また観劇する機会があればいいなと思う。こういう感覚に簡単になれるのもレパートリー制のおかげである。観客にとってはいいことしかない。ゴーリキーでも、こういう状況が長続きすることを切に願う。