【ドイツ 演劇】Bernarda Albas Haus(フェデリコ・ガルシーア・ロルカ作、ケイティ・ミッチェル演出『ベルナルダ・アルバの家』)――2025年5月2日 ベルリナー・フェストシュピーレ Das Haus der Berliner Festspiele ※テアタートレッフェン Theatertreffen

演出:ケイティ・ミッチェル Katie Mitchell
作:アリス・バーチ Alice Birch
原作:フェデリコ・ガルシーア・ロルカ Federico García Lorca
翻訳:ウルリケ・サイハ Ulrike Syha
観劇日:2025年5月2日
ドイツ語初演日:2024年11月2日

トレッフェンの障壁

 待ちに待ったテアタートレッフェンである。しかし、島国からやってきた田舎者にとっての現実は、非常に厳しいものだった。4月17日14時に予約開始だったのだけれども、予約開始とともにほぼ即完である。関係者が知り合いにいてもチケットの入手は困難なようで、われわれのような〈ふつう〉の人間は5G回線完備の環境を確保し、コンマ数秒のタッチでどの位置がいいのかを考える間もなく、自分が払える金額の座席をクリックしなければならない。少し待つとクレジットカードでエラーが出るなどして、キャンセルされた席が戻ってくるのだが、それも数秒もすればまた消える。以降、数席現れては消えるを繰り返す。初手で確保できなければ、その後もPCに張り付き、自分はクレジットカード番号をいつでもコピペできるように準備しておく――それで本作と、ピナ・バウシュの Kontakthof、ゴーリキーの Unser Deutschlandmärchen をなんとか確保できた。ホルツィンガーの Sancta はまったく入る余地がなかった。 日本のドイツ演劇の研究者たちのこれまでのトレッフェンへの記事を見ていると、たいへんお楽しみだったように読める。彼らがどういう手段でトレッフェンを体験してきたのかは不明であるが、こういう現実を忘却するのは、いかにも〈インテリ〉らしい無垢である。

 ハーバーマスやアレントの公共圏の議論と同様、劇場は今でも、〈現実には〉人々を排除しているが、〈原理的には〉誰も排除していない。文化・芸術はじつは排除とは切っても切り離せない。排除と受容の均整がとれてはじめて、ようやく文化・芸術は持続可能となり、そして人々にその価値が認識できるほどにまで成熟する。一般には、受容の側面ばかりが喧伝される。「〈排除〉による統合」などない、ということにしていなければならない。そうでなければ、リベラルが、左派が、唯一拠り所にしているところの、理念上の〈正しさ〉が失われるからである。自らが〈正義〉の側に立っていると思い込んでいなければ、欲望や貧困といったすべての現実に押し流されてしまうという切迫感だけで、リベラルも左派もかろうじて命脈を保っている。

 私自身、予約時の歯がゆさは忘れて、劇場に到着していた。会場に入り、いよいよトレッフェンだ!とわくわくしていたのだが、ゆっくり照明が変化すると、Matthias Pees らによる開演前の挨拶がはじまり、これがまるで日本の校長先生の挨拶ばりに長く、そして私に文化芸術における「排除と受容」の問題を思い起こさせた。Rechtsextreme を批判できるのは、ここでは「彼ら」を排除しているという安心感があるからである。ベルリンの劇場は、排除と受容がよいバランスだったのかもしれない。そして物価の高騰といった現実的な危機に瀕して(AfDの台頭ではない)、そのバランスが崩れつつあるように見える。日本は、排除と受容を、それぞれ別室で行っているところに問題があるように感じるのだが、これ以上は後で考えていくことにしよう――

ケイティ・ミッチェル演出『ベルナルダ・アルバの家』Bernarda Albas Haus

 本作は「2025年、最も注目に値する10の演出作」(Die 10 bemerkenswertesten Inszenierungen 2025) に選ばれ、それだからベルリナー・フェストシュピーレの家 das Haus der Berliner Festspiele で上演されている。誰が選ぶのかといえば、7人の批評家である。そのため、やや偏るところもあるらしいが、さすがに今回だけではこの選び方の何がどう問題なのかを考える材料が少なすぎる。

 フェデリカ・ガルシーア・ロルカ Federico García Lorca はスペイン・グラナダ出身の劇作家である。見覚えがある名前だなと思っていたが、『イェルマ』Yerma を、National Theatre at home でストリーミング視聴したのを観劇後思い出した。農村部、抑圧的な環境に身を置く女性、という点で共通しているところがあるのだが、作家による意識的な連作、三部作とは言い切れないようである。National Theatre のほうは、俳優もかなりパワフルな印象で、ガラス張りで四方を囲まれた舞台が見えない抑圧をうまく表現していたと記憶している。今回、同じイギリスの演出家、ケイティ・ミッチェルの手によるものだが、こちらは抵抗や反動、に重きを置くというよりは、例えば、狭く小分けにされた七つの小部屋の断面など、制約的な環境の閉塞感が観客の眼にへばりつくようなスタイルだった。元の劇場がハンブルク・ドイツ劇場 Deutsches SchauSpielHaus Hamburg だったためか、座席によっては、舞台両端で起きていることがまったく見えなかった。ヨーロッパの演劇を観ると、誰でもいちどはその奥行きに感動するものなのだが、本作では、両端で起きていることが見えないほど、横長の美術であった。それにもかかわらず、両端であからさまな同時進行の会話が設定されている。もはや「わざとらしい」と表現してしまってもいいだろう。またシーンの切れ目切れ目で、俳優全員がスローモーションに動くところがあった。これが何度もあって、しかもただゆっくり動いているだけでそこに太田省吾のような戦略や美的センスも感じられなかった。一階席の10列目だったせいもあるのかもしれないが、視力1.5の自分には動きは粗く見えた。

〈母〉へ

 思想の敵あるいは主題は、ここ最近〈父〉から〈母〉へ移りつつあるのかもしれない。ゴーリキーで観た MOTHER はじめ、「母」を中心とする作品を最近よく観るような気がする(同じくトレッフェンに選ばれた unser Deutschlandmärchen もそうだったし、6月には Mother Tongue が上演される)。いや、すでにチェーホフなどは『桜の園』でこれを看破していたのかもしれない(そもそもチェーホフ戯曲では「父」の影は薄いけれども)。そして本作では結局、出口を見つけ、外に出ることを諦めてしまう。この絶望に対する説得力はあまりないように見えてしまった。それは単に言葉が完全に理解できていないということだけではない。ゆっくりと動く場面にせよ、同時多発会話にせよ、「何かを指示通りやっている」という身体がそこに置いてあるというだけだったのである。

 娘の1人が首を切って死ぬ場面、客席から少し悲鳴が上がったことに驚いた。たしかホルツィンガーのタンツ TANZも、ビックリして失神する人が後を絶たなかったとか聞いた(KEXのアフタートーク)。グロテスクさへの耐性はヨーロッパの人びとのほうがあると思っていたのだが、偏見だったようである。日本人は、子供の頃からアニメで鍛えられてるのかもしれない。『鬼滅の刃』がブームになってだいぶ経ってから「グロテスクすぎるのでは?」と言われはじめたのが思い出される(なお、鬼滅は2期以降かなり控え目になった)。ヨーロッパの観客にとって、それほどまでに「血」や「死」が遠くなっているのだろうか。ドイツでは徴兵制の復活が叫ばれるほどに、危機に瀕しているはずなのだが、このあたりの感覚はさすがにわからない。もしかすると、日本人が血糊を好きすぎるだけなのかもしれない。

 〈母〉は、家父長制の被害者であると同時に加害者でもある。またここでもニーチェを引いてしまうが、〈母〉も「そう欲した」のである。父ひとり倒してしまえば終わりだったらどれだけ楽だったか。du hast keine Freiheit! と突きつけるのは実は簡単で、Was ist Freiheit? に対しては誰も回答を持っていない。それどころか、人類はまだ keine-Freiheit から Freiheit を取り出せていない。「…ではない」からの解放が望まれるのだが、本作は思想的にはそこからは程遠いように見える。