【ドイツ 演劇】Endspiel(S.ベケット作/演出ヤン・ボッセ『エンドゲーム』)――2025年4月27日 ドイツ座 Deutsches Theater
演出:ヤン・ボッセ Jan Bosse
出演:ウルリッヒ・マテス Ulrich Matthes、ウォルフラム・コッホ Wolfram Koch
観劇日:2025年4月26日
初演日:2007年6月2日
1時間15分(休憩なし)
ベケット初観劇であった。ゴーリキーの若い俳優のドイツ語は早くて聞き取れないことが多いのだが、ドイツ座の俳優の発音はどういうわけかよくわかる気がする。>>Ismene, Schwester von<<と>>Angabe der Person<<で観劇したスザンネ・ヴォルフも圧倒されたが、今回も大ベテランの俳優の妙技が終始続く。なお、ウルリッヒ・マテスは『ヒトラー ~最後の12日間~』(2004年)でゲッペルス役を演じていたと知ったのは、観劇後のことだった。
会場に入ると、客席に向かって真っ白の光がぶつけられている。観客は前を見ることができないので下を向いたり、パンフレットで遮光したりするしかない。2007年に初演なので、心得ている観客はサングラスを持参しているようだった(欧米人の眼は光に弱いので基本装備なのかもしれない)。舞台は八百屋になっている。オレンジのみずぼらしい服装の老人が立っていて、キラキラのスパンコールのジャケット、サングラスといういで立ちの男が舞台中央に座る。人物たちの何かに呼応するかのようにして、音楽が繰り返される(音楽:Arno Kraehahn)。
この時期ほど、ベケットが心にしみることはないだろう。劇場というハイソな人間が集まる場所にとりあえず通う一方で、自分たちは家がない。返信や振込などを待っていて、メールボックスや銀行のアプリのウィンドウを開いてみるけれども、何も変化がない。広大な無しかない。彼らが窓を開き、>>Es gibt keine Natur…<< とつぶやく様にかなり共感した。
今回のヤン・ボッセ演出では、ハムとクロヴしか出演していなかった。多くのセリフがカットされているらしい。これまで、ベケットの戯曲そのものにはあまり関心を寄せてこなかったせいで、多くを積読している。『ゴドーを待ちながら』『わたしじゃない』『息』だけさらったが、結局それ以上前に進もうと思わなかった。別役実はじめ日本でも多くの演劇人たちがベケットに強い関心を寄せるが、どうしてそこまで皆が面白いと感じるのか、結局理解できないでいる。そしてこの印象は今回もあまり変わらなかった。これは作品のせいではなく、きっともうベケットは個人的に合わないのだろう。別役実もいくつか読んだが、まったく好きではない。むしろ嫌いの部類に入る。今回の観劇はそれを確信に向かわせた。ただ、絶大な支持を世界中で受けているのは事実なので、自分のものの見方に何らかの問題があると考えなければならない。
それでも、終始飽きずに楽しんで見続けることができたのは、ここまで簡略化して、二人の俳優の力にすべてを集約させて、そしてその二人ともこれに応えうる能力を持っていたからだろう。クロヴは、>>Ich gehe jetzt<< 「今、行く」と何度も言いながらいつまで経っても、主人のところ以外には、どこにも行かない。指慣らしもできない。目覚まし時計 Wecker を「身体で表現する」。ハム役の俳優は自分では動けないはずなのに、なぜかものすごく躍動感があった。この観劇を通じて、もう少しベケット作の上演時の俳優の身体について考えたいと思った。