【ドイツ 演劇】Bühnenbeschimpfung(ジルヴァン・ベン・イーシャイ作/セバスチャン・ニュブリング演出『舞台罵倒』)――2025年4月14日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater

作:Sivan Ben Yishai ジルヴァン・ベン・イーシャイ
演出:Sebastian Nübling セバスチャン・ニュブリング

観劇日:2025年4月14日
初演日:2022年12月17日

 あまり深く下調べせずに観劇してしまったので、作品の主題を見失ったかもしれない。タイトル、Bühnen-beschimpfungのうち、Bühnen は「舞台」、Beschimpfung は「侮辱、ののしりの言葉」である。直訳すれば、「舞台罵倒」であろうか。つまり、この戯曲の念頭には、ペーター・ハントケの『観客罵倒』(独:Publikumsbeschimpfung)がある。

 はじめ、ピンクのドレスを観にまとった四人の俳優が出て来て、音響で拍手や歓声が入り、「終演のとき」が演じられる。これが何度も繰り返される。ベルリンで観劇していると、毎回のようにトリプルコール、多いときで4、5回俳優が出たり入ったりして、拍手を浴びることになる。ほぼ毎回カーテンコールなしの演出の自分にとってはあまり好きな時間ではない。

 客席と激しく交流する演出が、セバスチャン・ニュブリング Sebastian Nübling には多いのだろうか。実は、ドイツ座でE.オニール『夜への長い旅路』の演出(2025年1月30日初演、観劇日:同年3月23日)を、先月観劇していた。そちらでは、はじめから客席にいる四人の俳優が思い出される。ドイツ座では、徐々に客席から「作品が離れていく」ような演出だった。はじめは客席、舞台のツラ周辺、そして幕が開いてその奥で(ヨーロッパの舞台は奥行がすごい)、というわかりやすい構成だった。今回のマクシム・ゴーリキー劇場では、舞台のツラ(幕は下りている)→客席→幕が上がって舞台の奥で、という構成だった。

 はじめの繰り返されるカーテンコールの次には、「客席」とのやりとりが続くのだが、しかしその前にドラマトゥルクとの会話があったりする。このあたり、ドイツの演劇のことがわかっていないと意味がわからない。多くの場合、客席の最前列ど真ん中にドラマトゥルクがいて、彼らはいろいろなことを管理している。みんな手元の明かりがついた脚本のバインダーを持っているのですぐにその人がドラマトゥルクであることがわかる。つまり、彼/彼女は「客席と舞台のあいだ」にいる存在である。セリフが抜けると、本番だろうとドラマトゥルクがその場でセリフを入れる。日本ではあまり見られない状況だろう。これと相関関係なのかもしれないのが、レパートリー制である。俳優はひと月のうちに何作も出演がある場合もある。1週間のうちに、3作の別の作品に出演しているなんてこともよくある。私自身観劇中に、セリフが抜けてドラマトゥルクが入れるというのを何度も観た。今回も出演している俳優の一人、Aysima Ergün は昨日(4月13日) ヤエル・ローネン『オペレーション・マインドファック』Operation Mindfuck 、2週間前(3月30日)にはヌルカン・エアプラート『狂気の血』Verrücktes Blut 、その前の日(3月29日)にはまたヤエル・ローネン『プラネットB』Planet Bに出演している。無責任な観客からすれば、「おお、また君か!」という感じなのだが、俳優の視点に立ってみるとかなりの過剰労働な気がする。もちろん、どの役もそこそこセリフがある。出演作が多ければ、給与も変わるのだろうか。長く滞在していて、そういう側面にも想像が及ぶようになってきた。少し面白かったのは、前日に思いっきりセリフが抜けていた彼女が、gib, gib, gib…..と繰り返してしきりにドラマトゥルクからのプロンプを要求する演出があったことである。観客もここ最近彼女が高稼働すぎることを理解したうえで楽しんでいるのだろうか。ペーター・ハントケ『観客罵倒』についてと、こうしたドイツの演劇のあり方についての前知識がないと、本作の客席にいても置いて行かれてしまうだろう。

 また、客席に質問をして、Yes の人は立って/座ってくださいのような幕もあった。「クラウンのクラスを受講していますか?」「今恋人はいますか」「月々〇〇ユーロ以上の収入がありますか」などの個人的な質問もあったほか、政治的な問いかけもあった。「環境問題は解決できると思いますか」「マクシム・ゴーリキー劇場は政治的だと思いますか」「演劇は政治的だと思いますか」等等。この作品で気になっていた観客の層やゴーリキー劇場を取り巻く空気(たぶんベルリンの劇場も似ているだろう)が見えてきた気がした。

 「クラウンのクラスを受講していますか」はぽつぽつと立ち上がった。これはそこまで驚くに値するものではない。「収入」に関する質問はなかなかチャレンジングに思える。「月々1000ユーロ以上収入がある人」にはじまり、徐々に2000、3000、4000と増えていく。もちろん、立っている観客は減ってくる。日本で同じ演出ができるだろうか。というか、ゴーリキー劇場(その日いた観客)の観客、みんな結構稼いでいる人が多いなと思った。私は無職である。「環境問題は解決できると思いますか」には多くの者が立ち上がった。ドイツらしいな、と感じた。多くのテキストのテーマに環境問題 Umweltproblem が入っている。ベルリンの建築物は夏に対して無策である。そのため劇場は夏になると休みに入る。「温暖化のせいだ…なんとかしなきゃ」という身体感覚になることは理解できる。一方、日本では『徒然草』に「家つくりようは夏をむねとすべし」と言われるように、夏には強い。日本の家が抱える問題は冬である。ただ、日本の教育における環境問題の扱いはあまり大きくない。現代史や政治・経済でも最後のほうにちょっと出てくるくらいだろうか。日独で関心の差は大きい。「解決できると思いますか」に「はい」と思っている日本人はドイツ人よりもたぶん少ないだろう。――いや、ベルリンの演劇の観客というのは、ものすごく限定的な層のような気がする。それは身なりからして明らかである。その点も考慮しなければならない。データがないなかで、これ以上詳しく検討することはできないけれども、観客が高学歴、高収入層に限定されているという推測はあまり間違っていないだろう。どこかで何かを調べてみよう。きっと根深い話である。

 舞台の終わり、今にも崩れそうな、発泡スチロールのような材料で作られた「神殿」が建設される。この演出は印象的であった。あまりに諸い。今にも崩れそうな「神殿」のには Kritik ist Liebe 「批評とは愛である」と刻印されている。そしてほんもののカーテンコールのときにこれが倒れてしまう。勝田吉太郎が「民主主義は贅沢品であるだけではない。精密な機械でもある。精密な機械だということは、故障しやすいことでもある」と『民主主義の幻想』を書き始めていたが、演劇も、批評もそうであると思った。重要なのは、どこが壊れやすいのかあらかじめ了解しておくということなのだが、私の考えでは、誰一人それを考えすらしていなかったので、今の体たらくがある。「敵と共存する! 反対者と共に政治を行う! このような愛は、もはや理解しがたいものになり始めているのではなかろうか?」(オルテガ(桑名博訳)『大衆の反逆』白水社、1991年、122頁)

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