【フランス 演劇】SAIGON(カロリーヌ・ギエラ・グェン作・演出『サイゴン』)――2025年4月12日 Schaubühne
作・演出:Caroline Guiela Nguyen(カロリーヌ・ギエラ・グェン※)
観劇日:2025年4月12日
初演日:2017年6月(the Festival Ambivalence(s)、第71回アヴィニョン演劇祭、フランス)
※カタカナ表記は SPAC のウェブサイトに合わせた。
今年のFindは、これが最後の観劇となった。演劇祭、なかなかコンプリートは至難の業である。先週観劇した『ラクリマ (Lacrima)』と同様、カロリーヌ・ギエラ・グェンによる作・演出で、こっちも200分(休憩込み、3時間20分)とめちゃ長編である。『ラクリマ』のほうは席を離れられない小休止が3分あっただけなのだが、こちらにはちゃんとした休憩が1回あって、また席を離れられない小休止も設けられていた。私と同じような不安を抱いた人がいて、チケットの確認に並んでいると前にいる人がスタッフに「途中、休憩 Pause はありますか」と聞いていた。私も聞きたかったのだが、スタッフの返答が聴こえなかったので、私も「休憩はありますか」と聞くと、「1時間後にありますぜ、旦那」(意訳)と言われた。国際的にみても、3時間は、「内容に関係なく長い」と感じるのが漠然とした共通認識だろう。
サイゴン SAIGON は、2018年にも Find で上演されているが、ふたたび今年も上演される。過去作と最新作が一つのフェスティバルで同時に観ることができるという仕様である。まさに「注目の作家 Artist in Focus 」である。3時間の作品なんて1本やろうと思ったら、きっと自分にとっても、そしてたぶん俳優にとっても命がけになるのだろうけれども、豪勢な扱いである。
カロリーヌ・ギエラ・グェン自身が、ベトナム人を母、フランス領アルジェリア生まれのユダヤ系フランス人を父に持つといバックグラウンドを持っており、このことは本作とは無関係ではないだろう。「サイゴン」とはどこのことなのか。
舞台はベトナム料理のレストラン。横長で、まるで吉本新喜劇を思い出させる構造である。しかし、見慣れた吉本新喜劇と違うのは、厨房がシモテ側に設置されていることである。私の舞台感覚だと、どうしてもシモテから人がきて、カミテの家につくという構造になる。所詮は私個人の感覚にすぎない。無理やり能舞台とかを結び付けてもいいのだが、この感覚の違いにもっともらしさを付け加えることにあまり意味があるとは思えない。またカミテ側にはカラオケコーナーがある。
さて、このレストランはそして、いつ、どの街にあるのだろうか。「サイゴン」というタイトルが、フランスによるベトナム占領を思い出させる。現在のベトナム社会主義共和国の最大の都市、ホーチミン市の、市街地中心の旧称は「サイゴン」である。1975年のベトナム戦争末期、サイゴン陥落があって、サイゴン市はその名を「ホーチミン市」と改められた。ここだけみると、「サイゴン」という名前が「占領の象徴」というように感じられるのだが、どうやら現在のベトナムにおいて、ネガティヴな意味合いだけを持つわけではなく、公式・非公式問わず、日常的に使われるらしい。「サイゴン」の語源も諸説ある。このあいまいさがむしろ作品には、合っているのかもしれない。そして、そこはまた、パリでもあるらしい。二つの場所に対して、さらに、二つの時代(1956年と1996年)がここで交じり合い(少なくとも私の頭のなかでは)、舞台空間にアジア的混沌が現出しているかのような印象があった。
「アジア的混沌」は、ヨーロッパにはあまり見られない。街並みにおける大きな違いといえば、やはりその「突発性」だろう。歩いていると、「突然」それが現れたかのような感覚に陥るぎらぎらしたネオン。日本では建築基準法を「形式上」守ってさえいれば、どのような家を建てても問題にならない。田んぼの真ん中に、ぽつんと洋館があったりする。極端な例だが、日本一安いタワマンとして知られる山形の「スカイタワー41」なんかいい例かもしれない。台風や地震など、自然災害も多いので、建てては壊れを繰り返すうちに、全体としての統制はとれなくなっていく。雑居ビルというのも、ヨーロッパの人たちからすれば特徴的らしい。
この混沌が物語のなかでも作用していた。いつ、どのタイミングで、誰が現れてもおかしくないというような雰囲気を感じた。物語を追おうとすると、ついつい、いま、どこで、だれなんだ、という意識が働いてしまうと負担になったのかもしれないが、字幕は、英語・ドイツ語、セリフは、フランス語、英語、ベトナム語と、はじめから混乱する要素がいっぱいあったので、ある程度諦めてしまって、少し引いた視点で観ていた(※)。場転などの演出は毎度、歌が入って、照明変化、俳優が椅子を並び替えるくらいのもので、映像をふんだんに活用した『ラクリマ Lacrima』よりは単調であった。この期間における演出家としての成長がはっきりと感じ取ることができる。
物語のなかでは、「フランス語を話すこと」が重大な意味を持つように描かれていた。フランス語を話すベトナム人の男に対して、恋人が「私はフランス語が嫌い!」とベトナム語で言う場面があった。当時のベトナム人たちにとって、どれほどこの言語の問題が深刻だったのかは私には想像もつかない。さまざまな要素が重なって、「外国語」による占領から免れてきた日本人にはない感覚である。われわれは今でも日本語だけで、大学までいけるし、日本語だけでもそれなりの収入を得られる社会にいる。
ラストシーン。おそらく「主人公」と位置付けられるだろう老人が、かつて自分が知っていたサイゴンのレストランに現れて、ベトナムの若者たちと交流する。若者たちがこのとき、たどたどしい英語で話す。ハウ・アー・ユー? アイム・ファイン・センキュー・エンド・ユー? は全世界の英語のテキストの1ページ目に載っているようだ。この無遠慮で無垢なやりとりが、現在を肯定しているように感じられた。最近、ロシア人がいつも「コンニチハ」と言ってきたり、ドイツ人が「アツイ」?「サムイ」?と言ってきたりするのだが、こういう牧歌的な様がいつまでも続けばいいのにと思う。もちろん、そうではない社会、言語、人々はいまだに存在する。歴史と言語に対しる人々の意識についてもう少し詳細に理解できるよう勉強したいと思った。自分自身も、関西弁を使ってよく戯曲を書く。物語のなかで、イヤなやつは基本標準語を使って話す。彼女がどういうリサーチをしているのか(2年かけたらしい)に関心が沸いた。自分も戯曲を書くときにリサーチするので、時間ができたらその手法やプロセスについて調べてみたい。
※別の劇評で、その筆者はエジプト人なのだが、理解するのがたいへんだったらしい。多言語の演劇がそもそも持つアポリアなのかもしれない。リアリティと、わかりやすさを両方とることはできないものか。
参照記事: