【ニューヨーク 演劇】Baldwin and Buckley at Cambridge(ジョン・コリンズ(ERS)演出『ケンブリッジのボールドウィンとバックリー』)――2025年4月12日 シャウビューネ劇場 Schaubühne

演出:ジョン・コリンズ John Collins
観劇日:2025年4月12日(シャウビューネ)
初演日:2021年9月9日(フィラデルフィア)

 1965年、ジェームズ・ボールドウィンとウィリアム・F・バックリー・ジュニアは、イギリス・ケンブリッジ大学のユニオンに招かれ、「アメリカンドリームはアメリカ黒人の犠牲の上に成立している」という結論について討論した。この対立を再現するというもの。ボールドウィンはアフリカ系アメリカ人の作家・活動家である一方で、バックリーは保守派の作家である。現実の議論の詳細は、英語版の wiki(Baldwin–Buckley debate)に掲載されてある。海外の wiki と日本の wiki の質の違いはいったい何なのか。

 舞台は三方の囲み舞台になっている。白人と黒人の二人の若者が演説をしたあとに、ボールドウィン、そして最後にバックリーが演説をする。非常にシンプルな展開である。私は囲み舞台のカミテ側の最前列の座席だったが、多数の座席はボールドウィンに対して完全な正面、バックリーの後ろ側になる。最後に背景の黒い壁が上がり、ホテルの一室でのボールドウィンとその親友ロレイン・ハンズベリーとの会話劇(ここは創作とのこと)が展開されるのだが、これを踏まえての演出なのだろうか。バックリーの後方に多数の観客を配置することに、何らかの政治的意図を感じたりもした。メインチャンバーは英国議会を模しているらしいのだが、私の席とその反対側の席は「参加者」としてその場に居合わせたかのような印象になるのだが、正面のほうに座るとフィクションとして劇を観ている感覚が強くなることが想像される。

 ボールドウィン役の俳優は沸き立つ怒りを抑えているかのような動作が透徹されている点を魅力的に感じたが、しかし全体としてはあまりにも動きに乏しく、字幕とともに「文学を観ている」ような感覚に陥った。会話劇へ移行する前、ボールドウィン以外の三名の俳優が立ち去ってから、とても長い余韻がもたれた。勝利を手にしたはずのボールドウィンの孤独が染み渡った。ここで幕切れにしてほしかったところなのだが、親友との砕けた会話がはじまり、これからの時代を展望する――私にはボールドウィンが取り残される余韻がすべてを物語っているように感じられたので、やや蛇足に思えた。

 ジョン・コリンズ率いるERS(ELEVATOR REPAIR SERVICE)はこのような硬派な劇を普段やっているわけではないらしい。New York Times によると、「これまでのERSの公演によくあったような、奇抜な小道具やふざけた音響デザイン、お尻を振るようなダンスは、この作品には一切登場しない」(The gonzo props and goofy sound design and butt dances of prior E.R.S. shows? These do not appear.)とのこと。

 まだ知性が信じられていた時代、「反知性主義」が敵を見据えられていた時代。日本なら最近「三島由紀夫 VS 東大全共闘」 のやりとりに注目が集まった。コロナ前後、各国での右派の伸長という現実から目を背け、リベラルのほうがやや「懐古的」な感覚になっていたのかもしれない。話し合いが通じていた時代だったような気がする。映画とNational Theater Live で「ベスト・オブ・エネミーズ」という題の作品を鑑賞した。いずれの作もハーバーマスの〈対話的理性〉/〈コミュニケーション的理性〉によって支えられる公共圏が、実現可能であるかのような希望を与える。だが、ここまでインターネットによって、観ている現実が異なるようになってしまった今、大きな問題について正面から議論したとしても、その中身に目を向けられることはなく、結局は「拡散合戦」に勝利した者が有利な立場を得るという事態になった。もう少しこのフィクションと、われわれとの現実の距離を明示してほしいところである。

 だいぶ前、まだきちんと読んでいないがハイデッガーとカッシーラーの「ダボス討論」について調べたことがある。そしてこの討論はのちに、寸劇になったらしい。「ハイデッガーの勝利」「哲学的ディスコミュニケーション」と報じられたこの討論のほうが、もしかしたら今の社会に何か投げかけるのには適しているのかもしれない。