【ドイツ 演劇】Ja nichts ist ok(ルネ・ポレシュ『ああ、何も大丈夫じゃない』)――2025年4月7日 フォルクスビューネ Volksbühne am Rosa-Luxemburg-Platz

テキスト:ルネ・ポレシュ René Pollesch
出演:ファビアン・ヒンリヒス Fabian Hinrichs
観劇日:2025年4月7日
初演日:2024年2月11日

 劇作家・演出家のルネ・ポレシュは2021年からフォルクスビューネの芸術監督を務めていたが、本作 >>Ja nichts ist ok<< 初演から間もない2024年2月26日に急逝した。そもそも同作の初演は同年1月20日に予定されていたのだが、稽古中にポレシュが入院したために2月11日に延期されていた。論創社『ドイツ現代戯曲選』では『餌食としての都市』が新野守弘の訳で出版されている。

 ファビアン・ヒンリスによる一人芝居。舞台には岩が重ねられた〈オブジェ〉とプール付きのシェアハウス WG (Wohngemeinschaft)がある。音楽とともに、プールで俳優が一人で暴れ出す。Sag es!! とか Du bist…!!! と何やら叫んでいる。Du (「お前/君」:二人称の親称の主格)とは一体誰なのか。その男によれば、この家には、4人が暮らしていて、ほかの3人はポール、クラウディア、シュテファンという。

 本作はかなり「簡易な」テクストで構成されている。私でも多くのセリフを理解することができた。フォルクスビューネの作品ページには、作品の紹介ではなく、冒頭のテクスト一部が書かれてあるのみである。医者にいくとか、いかないとか行ってくれとか、ものすごい些末な日常会話を、一人で三役も演じながら「バカみたいに」続ける。向かい合う椅子があって、一つに座ってセリフを言ったと思ったら、立ち上がってとぼとぼともう一方に座って、ローブを着たり、眼鏡をかけたりすることでものすごく簡素に役が変わったことを示しながら、話す。

 >>Ich stehe in Einsamkeit <<

 「私は孤独のなかに立っている」

 自分のメモには、> Einsamlichkeit <とメモ書きしてあったが、辞書には出てこず、古いドイツ語で einsambligkhaidt という単語がひっかかるのみ。聞き間違いか。たぶん間違えていたとしても意味はわかる。このセリフが盛況のフォルクスビューネでこれほど響くこともないように感じられた。

 >>Ich würde gern übergangen <<

 「おれを無視もらえるとうれしいな」(カミテ側の客席通路で言っている)

 ほんとうにそうなのだろうか。唐十郎がコクトーの一人芝居『声』を批判しつつ、「そんなに自分が好きかよってね」、「他者に飢えて飢えて仕方がないっていう一人芝居なら…」と言っていた映像のことを思い出す。出典がどれだったかは記録していないが、かなり印象に残っている(唐十郎もコクトーの『電話』と間違って発言していた)。しかし、すべてが嫌になる気持ちは誰にだってわかる。

>> Ich hasse zu hören <<
>> Ich hasse zu sehen <<
>> Ich hasse zu sprechen <<
>> nicht mehr sehen <<
>> nicht Arbeit gehen. <<

「おれは聞くのが嫌だ、見るのが嫌だ、話すのが嫌だ、もう見たくない、仕事に行きたくない」

 この hasse がそして、他者にも向けられる。

>> Ich hasse es, dich anzusehen. <<
>> Ich hasse jede Streit<<

「おれはお前を見るのが嫌だ」

「おれはすべての争いが嫌だ」

 そんなことをいっていても生活は続く。Amazon から荷物が届く。人は移動しなくてもモノは移動する。コロナ時代には、それまで「モノから人へ」(製造業からサービス業へ)という動きが「人からモノへ」と一時的に変化した。リビングに段ボールをつみあげる男。片方で三角座りして、

>>zwei unterschiedlich Welt<<

「二つの異なる世界」とつぶやく。ベルリンの壁を想起させる。唐突に暗くなり、ベッドで眠りにつく。まだ他の人間がいる想定である。

>> Ich hasse betrunken zu schlafen <<

「酔っぱらって寝るのが嫌だ」

 ちょうどいい具合にセリフがわからないために、断片的に理解できるセリフだけが頭に入ってくる。劇評を読むと、人物同士の葛藤がもっとあったようなのだが、私の理解度ではずっとたった一人で過ごす人間が誰かに何かを言いたくて、でもほんとうは誰もそこにいなくて、とほんとうに寂しい空間に感じられた。

 ラストシーンになると、

>> Ich liebe du, Mensch << ※

『人間よ、私はお前を愛している』と何かを受け入れていく(※メモ書きでは、du になっているが、文法的には、Ich liebe dich の聞き間違いかもしれないが、さすがにこれを聞き間違えることはないような気もするので何か意図があるとも考えられる)。するとたくさんの人々 Leute が合われる

>>Was sind das Leute?<<

「誰だ、この人たち?」

答えることもなく、徐に、積み重なる人々――そして彼も含めて円になって手をつなぎ一人一人が、隣の人間に、

>>Wer heißt du<<

「君の名前は?」と聞いて回る。最後に、Ich heiße Fabian. と答えて終わる。

 同作は、2025年5月に開催されるテアタートレッフェンの 注目すべき10の演出作(Die 10 bemerkenswertesten Inszenierungen)に選定された。フォルクスビューネでは、テアタートレッフェンよりも早く予約できてしまったというか、同じ月のうちに上演があったので(英語字幕なしだが)、この日に観劇した。ポレシュ最後の演出作に駆け込めてよかった。テキストがあるのなら読みたい。友人から「簡単な言葉だが、一筋縄ではいかないと感じさせるテクスト」と聞いて、よりこのポストドラマ作家に強い関心を持つようになった。

 この最後のセリフも、Wer heißt du と言っているように聞こえたのだが、AIに聞いてみると、Wie heißt du と修正してくる。聞き取れたセリフをメモしているだけなので、ふつうに聞き間違いの可能性もあるのだが、もしかするとこういう「書き方」に何か仕掛けがあるのかもしれない。間違いなのか、表現なのか、判別するためにはもう少し勉強しなければならない。日本語でも例えば岡田利規とか松原俊太郎とかだったら母語じゃない人が理解するのはたいへんだろう。それと同じである。生活のために奔走する日々のせいで「おざなり」になっていたが、やっぱドイツ語やらなきゃ。