【アイルランド 演劇】SAFE HAUS(エンダ・ウォルシュ、アンナ・マラーキー『セーフ・ハウス』)――2025年4月6日 シャウビューネ劇場 Schaubühne am Lehniner Platz ※FIND

演出:エンダ・ウォルシュ Enda Walsh
音楽:アンナ・マラーキー Anna Mullarkey
観劇日:2025年4月6日
初演日:2024年10月3日(An Abbey Theatre production アビー座/アイルランド国立劇場、ダブリン)

 この日も、シャウビューネ劇場で、Findの作品を観劇した。エンダ・ウォルシュは、アイルランドの劇作家、演出家、脚本家で、作曲を担当したアンナ・マラーキーも同じアイルランドのミュージシャンである。「アイルランド」はヨーロッパ演劇のなかでも特殊な位置にあるように感じられる。フランス、イギリス、ドイツといった文化的にも、経済的にも、政治的にも中心的なポジションにある地域に対して、あくまで周縁に属していながらも日本でアイルランドに関心を持つ友人がちらほらいた。しかし個人的にはそれ以上深く踏み込むことはないまま、この日を迎えてしまった。

 エンダ・ウォルシュは、1967年生まれの58歳で、ベテランの域にあるといっていいだろう。ストレート・プレイ限らず、幅広いジャンルを横断するタイプの作家らしく、また戯曲も世界各国で翻訳されているとのこと。日本語で検索をかけてみたところ、2024年に『 M e d i c i n e メ デ ィ ス ン 』が白井晃の演出で、ツアーされており、直近になってしまうが、2025年5月~6月にはKAAT神奈川芸術劇場<ホール>でデビット・ボウイが音楽を担当したミュージカル『LAZARUS』が同じく白井晃演出で上演される予定である。

 舞台上には、価値を失った粗大ごみなのか、機能がある家具なのかわからない仕方で、家具、小道具が散乱している。独りの女性がそのなかで自堕落で「ぐうたら」した日常生活を過ごしている。作品はほとんど、歌で構成されている。時折電話するのだが、歌っているときの生き生きとした様子からは考えられないようなおどおどした態度をとる。場面は ティックトック TikTok のように細切れにされていて、何がどう展開されているのかは終始よくわからない。

 別役実が劇作家協会の戯曲講座のなかで(神田は講義の録音を聞いた)、これからの時代は小さく細切れにされたシーンをつないで大きなドラマにしていくことになるだろうと言っていた。これは現在のドラマのあり方を鋭く見抜いていたのだが、しかし、彼の想像は劇場を突き抜けてしまっていた。私たちは例えば、切り抜き動画からあるドラマを知り、気が付いたらネットフリックスを契約して全編を観るというような生活を送っている。

 本作も、断片的にシーンがつながれていて、そういう世界的に共通した身体感覚に対応するような演出になっているのだが、果たしてそれは〈演劇的〉なのだろうかという疑問がどうしても残ってしまう。映画が黎明期から〈演劇〉からどう離れるかに苦心してきたように、われわれも〈スマホ〉あるいは〈ストリーミング〉からどう離れるかに苦心するべきである。いや、時すでに遅しで、ひょっとすると今は〈AI〉からどう離れるのかを考えねばならない局面に差し掛かっているのかもしれない。

 映像で、海が投射される。その海もリアルな海ではない。映像を通して見ている海もまたフィクションの海にである。そういうものに囲まれたなかで、誰とも交流を持たず(持つことができないで)、たった独りで過ごす「セーフ・ハウス」ということなのだろうけれども、視覚的な、美術の鮮やかさ以上のものを本作で見出すことはできなかった。この日常をどうやって乗り越えるかを見せてほしいと私個人が考えているのかもしれない。自然主義(リアリズム)演劇が、理論通りやると絶対につまらなくなるのでそれをどう破綻させるかと言うゲームになったのと同じ構造なのかもしれない。