【ドイツ 演劇】Verrücktes Blut(ヌルカン・エアプラート『狂気の血』)――2025年3月30日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater
演出:ヌルカン・エアプラート(Nurkan Erpulat)
作:ヌルカン・エアプラート(Nurkan Erpulat)/イェンス・ヒルジェ(Jens Hillje)
初演日:2013年11月22日
観劇日:2025年3月30日
アンカラ生まれのヌルカン・エアプラート(Nurkan Erpulat)演出作、三作目である。調べてみると、日本演出者協会の国際演劇交流セミナー2012 ドイツ・トルコ特集にて招聘・来日していた。ドイツ語、ドイツ語、ドイツ語、と言葉で押してくる作風のようで、毎回しんどかったのだが、今回はストーリーのセットアップがわかりやすいので、楽しむことができた。原作は、フランスの映画 『スカートの日』(仏題:La Journée De La Jupe(ジャン=ポール・ リリエンフェルド感覚、イザベル・アジャーニ主演))。学級崩壊しているクラスで、生徒のバッグから「ほんものの銃が見つかる」。教師がそれを手に取り、奪おうとした生徒ともみあいになって暴発する。これが一回目の発砲。
教師は、震えながらも銃を生徒たちに向け、シラー『群盗』を生徒たちに読ませる。生徒たちは、銃におびえながらも、指示に従うしかない。Angst によって強引に、「授業」=(Unterricht)に統率が生まれる。最も態度が大きかった筋骨隆々の男子生徒は、もっとも情けなくみじめに怖がりながらシラー『群盗』の「とてもすばらしい」人類に対する理想主義的なテキストを読む。それをかわるがわる先生に指名されて読んでいく。ある生徒は、スイッチが入ったのか、持っている本を捨てて、ダイナミックに「好演」する。シーンの狭間では、アンバー系の照明が当たり、 Nun ade, du mein lieb' Heimatland (さらば、愛しき祖国よ)などが歌われる。毎回、学校の合唱風の演出だったのだが、これはドイツの学校でよく歌われるのだろうか。
ツッコミどころは多いというか、こんな事態になって銃声も鳴っていて、公的なものの介入がないものか、とか、さっき手を撃たれた生徒の応急処置は誰がやったのかとかを考えてしまっていた。映画のほうはそのあたりもう少し説明がなされているのだろうか。
今まで観た彼の演出作では、すべて「四角い枠で世界が区切られる」美術があって、今回はそれが教室だった。といっても、そこまで具象というわけでもなく、空間と椅子だけで「教室」が説明される。教室の真上にグランド・ピアノが吊られていて、合唱の場面になるとその鍵盤が光る。「文化的なるもの」がそこにあるような印象があって興味深かった。浮いていて、それでも上にあるということ。ドイツ語で「授業」を意味する、Unter-richtについて思いを馳せてみる。unter は「下に」もしくは「下へ」、richt は「向ける」という意味である。ドイツ語初学者は、richtig「正しい」との関係を想起してしまう。「正しさの下に」だとしたらちょっと怖い意味であるが、underrihten (立てる、指示する、叱責する)という用例が中高ドイツ語にあったようで、「正しい」は「Recht」から来ているので、似ているだけのようである。語源に詳しい人に聞いてみよう。なんとなくハイデッガーを思い出す。「世界-内-存在」みたいな言葉の崩し方をしたがるのは、ドイツ語の特徴からきているのか。『存在と時間』を読んでからだいぶ経つがようやく実感が出てきた。