劇団辞めてドイツ行く(49)ドイツにも花粉症があるらしい――2025年3月24日
一緒にいる人がくしゃみをしたとき、Gesundheit! (健康!)と言う文化がある。言われたらくしゃみをした人は Danke schön (ありがとう)と返す。授業で先生がくしゃみしまくってて、Gesundheitfestだったのだが、風邪って感じでもなくて、「Pollen(花粉)がやばいわ」とつぶやいていた。そういえばこの前、日本人の友人も同じことを言っていた。ベルリンにも花の便りがきているのかもしれない。もちろん同じ季節の関西よりは夜は冷え込むが、晴れの日の日中はコートが邪魔になる。
自分はドイツの花粉にアレルギーはなさそうで、十数年ぶりに心地よい春を過ごせそうである。マスクなしで外に出られる。2月の末頃から5月くらいまで、毎年花粉症に苦しめられてきた。中学生の頃、高校受験を控えた頃に鼻の粘膜を焼く手術をしたのだが、そのワンシーズンしか持たなかった。手術は鼻の中でイワシを焼いているような感覚だった。市販の薬は眠くなる副作用があるし、そのほか漢方とかいろいろ調べたつつも結局その後は毎年無策で春を迎えた。ここ数年は薬も進化して、副作用も小さくなっている。
花粉症は、日本では陰謀論を誘発する。完全に典拠なしといえないところに、陰謀論の「クリエイティブ」な側面がある。とりあえず今年は忘れよう。
今週は語学学校の試験があるが、去年B2には合格しているし、そもそもここでの試験の合否は自分にとって確認作業のようなものでそれほど重要ではない。ゲーテを受けるタイミングを探していて、たぶん帰国直後にB2を受け、合格したら次にC1を受けてみようと思う。関西では年に1回しか受けられず、東京でも年に2回しか実施されていない。独検は安いし、腕試し、確認として2級を受けてみたいが、資格として汎用性が低いのでスルーするかもしれない。いずれにしても、試験がないとモチベーションの維持が難しい性格なので、めんどくさいが受けねばならない。
しなければならないことばかりだが、適度にのんびりすることも覚えつつある。日照時間が短いので、晴れの日の昼は外にいて、日光を浴びなければならない。そうしなければ、気持ちが知らず知らずのうちに沈んでいく。
というか、なぜ自分は去年から急にドイツ語をこんなに勉強しているのかわからなくなってきた。大学の第二言語はフランス語だったし、実は去年の頭くらいまでフランス語も勉強していて、仏検と独検の3級を同時に受験し(1週間違い)、同時に合格した。フランス語も基礎文法は抑えてあるので、ドイツ語と同じように半年くらい集中して勉強すればそこそこものにはなるだろう。問題はそのリソースがあるか、ということと、目的は何か、ということである。
田中千禾夫『教育』では、最後「目的を下さい……眠らなければ、一つになれない……そんなのいや……いやです……目的を……目的を……」と、医学を学ぶ女性、禰莉(ネリー)がつぶやく。誰がほんとうの父親かが問題となり、結局母に、はぐらかされてわからずじまいで終わるこの戯曲は、さらに「烈しい苦行に身を投ぜんとするかのように、禰莉の額が何者かに突っかかって行」き、幕切れとなる。父と母(世俗的権威)からも、医者の翡江流(科学)からも、自律して神のみを信仰せよというメッセージ、あるいはこの信仰にいたるための「教育」という解釈で読んだが、田中千禾夫が望まなさそうな解釈を施してもいいのなら、「そんなことより目の前の課題をがんばれよ」とも受け取れる。
「オリピーに言われたから」というバカみたいな理由でベルリンに来てしまったが、なんだかんだで眼前に与えられた課題を真摯にこなし、少しずつドイツの演劇もわかるようになってきた。もう少し鍛え上げれば、作品はちゃんと観られるようになるだろう。けれども、その後どうしていくのか、何もプランがない。幸い選択肢は無数にあるが、どれも決め手にかけるところがある。関心の範囲が広すぎるせいだろう。だからこそ、自分の知的好奇心をほとんど満たす演劇という選択肢に至ったのかもしれない。そろそろ、しかし、これだと決めなければならない。いずれにしても、外国語が役に立たない、なんてことはない。日本ほど言語的に孤立した社会にいるならなおさらだろう。とりあえず武器として意味のあるものにするべく鍛錬を積む。