【ドイツ 演劇】Gier(サラ・ケイン作『渇望(原題:Crave)』)――2025年3月5日 ドイツ座 Deutsches Theater
演出:クリストファー・リューピング Christopher Rüping
作:サラ・ケイン Sarah Kane
初演日:2025年2月15日
観劇日:2025年3月5日
上演時間:1時間45分
劇作家サラ・ケインは、イギリスの劇作家で、1971年生まれ、1999年に若くして亡くなっている。作品は、性愛や暴力、苦痛といった陰鬱なテーマで、読めばすぐにわかるように以下のような断片的な短いセリフが並ぶだけである。本作と 4.48 Psychosis英語版を少し読んで、英語がぜんぜんわからずに挫折した。受験英語に毛の生えたレベルで、いきなりこれを読むのはだいぶ難易度が高かった。
I can't make decisions
I can't eat
I can't sleep
I can't think
――Sarah Kane, “4.48 Psychosis”
さらに、本作は動画サイトにどこかの学生による上演映像が落ちていて、それを観たことがあった。しかし、このことを思い出したのは観劇後のリサーチ中のことである。あまりにも演出の手つきに距離がありすぎて、今でも同じ戯曲だったと信じることができない。はじめに書いたように、サラ・ケインの戯曲は暗いイメージがこびりつく。冒頭はこんなセリフではじまる。
Du bist tot für mich.
「お前は私にとって、死んでいる」という意味らしいのだが、これを読み違えた。「お前は私のために死んだ」ととってしまった。tot は形容詞で、ここでのfür は「~にとって」という意味になるようである。例えば Es war attraktiv für mich / それは私にとって魅力的でした」表現することもあるが、 für と zu は for と to のように使い分けが難しい。なお、英語のセリフを確認すると、You’re dead to me だった。どうやらつねに for が für と対応するわけではないようである。英語には、to不定詞と言う文法事項があるが、ドイツ語にも zu不定詞という文法事項がある。たしかに、「アレ?、ドイツ語ではここは zu mir なんだ」となることがある。前置詞 Präpositionも一つ一つ掘ると深い。
In-yer-face theatre イン・ヤー・フェイスシアターという用語がある。1990年代にイギリスで生まれた創作スタイルの呼び名である。日本語版のwikiページはなく、検索をかけてみても、概略的な説明はすぐ見つかるのだが、関連書籍は見られず、日本での紹介はあまり盛んではないようである。Sarah Kane というと、すぐこの用語にぶつかるのだが、そこからの広がりを日本語で知ることは困難である。「自国に自信がない時代」には、盛んに海外の情報が輸入され、市場にも乗る。だから日本語限定で海外のことを知ろうとするときには、むしろ明治のころのほうが詳しくわかったりする。
そんななかでも、数少ない、少々でも触れたことのある戯曲の上演だったが、これまで新劇の戯曲に色を付けるという仕方が主だったため、本作のような、一見するとストーリーのないものにどう取り組むべきかよくわからかなかった。もちろん、このようなタイプの戯曲が現代にしかないわけではない。ハイナー・ミュラー『ハムレット・マシーン』やら、三好十郎『冒した者』やら、枚挙には暇がない。そういう戯曲に対してどのようなスタンスで向かえばいいのかという疑問への一つのヒントを得られたような上演だった。
はじめ生演奏の音楽から始まるのだが、正直当初はサラ・ケインの主題をこういうシャレオツな感じでくるんでしまっていいのだろうかと思ってしまった。しかし、演奏が終わってから「本題」にはいる。
上手には大きな映像投射用のスクリーンがある。俳優が一人、シモテに座る。観客から見ると横向きに座っていてその先にはカメラがある。カメラが捉えた映像は、スクリーンに映し出されている。そこには、照明写真を撮るときのような顔が大きく出る。そして、最初の
Du bist tot für dich.
が客席にいる別の俳優から投げかけられる。さらに、カミテ手前にはブラウン管テレビがあって、90年代のゲームのようなドット文字のフォントでセリフが流れる。これ、昔のプロンプターだったのかな。顔が映し出されている俳優はまったく話さない。別の俳優たちから投げかけられる言葉に対応するように、泣いたり、笑ったり、怒ったりといった表情を示す。別の俳優たちは、端的にその一人の俳優の言葉を投げかけるだけでなく、会話をしたりもする。「主観的」な言葉が羅列されるだけのテキストに対する出力として、こういう分離の仕方は非常にわかりやすいと思った。
今作は、笑いを誘うようなシーンはとても少なかった。心理的・身体的暴力、レイプや自殺といったテーマが扱われているというのが大きいのだろうけれども、どの作品を観てもはっきり楽しんでいることがわかったベルリンの観客たちはこういう作品をどのように受容しているのかが気になった。字幕もあったし、比較的言葉の意味はわかったのだが、「え? これ何の時間?」的な演出がダラダラ続くこともあった。ラスト、表情だけで演技していた俳優は舞台から出て行く。そしてその後スクリーンには外に出てベルリンの街をジョギングしている俳優の様子が「実況中継」される。彼女は、そして(たぶん)シュプレー川に飛び込む。
実ははじめに、ジェームス・ブラントの You’re Beautiful を俳優たちが彼女に向けて歌う。ちょっと古いのだが、大ヒットしたこの曲のPVは、海外ではパロディが多数作成されたらしい。PVでは、ジェームズ・ブラントが服を脱いで雪の降りしきる寒空のなかで海に飛び込んでいく。You’re Beautiful を歌ったのはこのための伏線だったのか。今の子、わかるんかな。演出のクリストファー・ルーピングは39歳で、曲のリリースが2004年なので、直撃したのは18歳のときということになる。この00年代の懐古的な締め方にはやや疑問が残る。しかし、映像に表情を終始映し出され続ける俳優の演技には惹きつけられつづけた。表情だけでここまでやれるのだ。