【戯曲を読む】No.6 佐藤信『鼠小僧次郎吉』 1969年

まじであらすじかけんぞこれ

 著作権に配慮してカット。
 起きたことを順に書くしかできませんでした。
 その理由について、Noteに書きます。

佐藤信(1943-)

東京都新宿区生まれ。1965年、早稲田大学第二文学部西洋哲学専修中退、劇団俳優座付属演劇研究所俳優養成所を終了。1966年、串田和美、斎藤憐、吉田日出子らとアンダーグラウンドシアター自由劇場を創立。1968年、「演劇センター68」の設立に加わる。のちに劇団黒テント創立メンバーに。1969年『おんなごろしあぶらの地獄』で紀伊国屋演劇賞受賞、1971年『鼠小僧次郎吉』で第16回「新劇」岸田戯曲賞(現・岸田國士戯曲賞)を受賞。

Note  単線→複線→扇状

 第一章から第七章までをある程度なんらかの体裁を保とうと努力しながら書いたが、たいへん難儀した。参照したテキスト(『あたしのビートルズ 佐藤信作品集』晶文社、1970年)の問題もあるかもしれないが、これは「戯曲とは何か」という問いにもつながる部分である。あらすじが書きやすいものと、書きにくいものがある。「まずこういう登場人物がいて、彼はこうして、すると別の彼がこうして、そこにはかくかくの困難があって、しかじかの葛藤があって、解決されて/解決されなくて、こう終わる」、というようにして、論理的に要約可能なもの。「まずこうして、次にこうあって、その次にこうして、こうして・・・・・・・」のごとく、順を追っていくしかないもの。戯曲は、単線的に「劇の時間」を語るものである。作為的な抑揚が拵えられていた「劇の時間」は、忙しくて時間のない人でも要点が掴みやすく構成されている。ところが、実際の時間の流れは、あとでまとめられる「歴史」と違って、複線的に進行する。そして、時折、一つの点に収斂することがある。この戯曲には、おそらく天皇=「あさぼらけの王」が中心が据えられることで、一つの点に収斂できてしまう、戦後(あるいはつねに)の日本の奇妙なあり方が書き込まれている。絶対精神の顕現、実体を持ちながら、観念的存在でもある天皇という存在。それ以外の事柄はすべてそれに付随するものでしかない。この仕組みはとても単純に見えるが、日本に特有の問題であって、われわれは誰からもヒントを得ることができない。太古より加工貿易を生業にしてきた集団だが、ついに自身で根底から思考しなければならない問題がここに突き付けられている。

 この戯曲を読むにあたっては、「あさぼらけの王」を中心に、数多のメタファーが散在していることがわかるが、それぞれが何を意味するのかを想像することは、それほど難しくない。戯曲を読んでも、そしておそらく上演を見ても、すぐに全容をつかむことは難しいかもしれない。しかし、全容をつかもうとする姿勢自体が近代的な思考であり、批判されるべきところである。もし敗戦が冬だったとしたら、蝉の声はこの戯曲からなくなるかもしれない。しかし、この戯曲の構造は変わらなかっただろう。重要なのは「あさぼらけの王」だけであり、それ以外の者たちははすべて翻弄され、中心すら認識できない。日本特殊論は、ドイツ特殊論を下敷きにしているが、この戯曲で描かれる1945年以後の日本史を以て、その下敷きは深く地中に埋まってしまったかのように思える。