戯曲の読み方――シェイクスピアよりイプセンから、声に出す、セリフとト書き、そしてあらすじ

戯曲の読み方?

 「戯曲」と検索すると、すぐに「読み方」と予測ワードが出てきます。多くの人が「読み方」がわからないと思っていることの裏返しなのでしょう。そこでいつも人に話していることを、丁寧めに書いてみました。何かのヒントになればと思います。

シェイクスピアよりもイプセンから

 世界で最も有名な劇作家は、シェイクスピアでしょう。これに反論はないと思います。演劇をいちども観たことがない人でも、シェイクスピアは知っていたりします。しかし、シェイクスピアは、五幕もあってとても長いですし、登場人物も多く、戯曲を読み慣れていない人にとっては少したいへんなのではないかと思います。私自身、わけもわからないうちに『ジュリアス・シーザー』(文庫版Kindle版)を手にとって、挫折した経験があります。逆に、短くて、人物も少ない、手頃なものだと、岸田國士戯曲賞で名前を知られる、岸田國士の戯曲『紙風船』などがあります。もちろんこれも悪くないのですが、ブルースのように、岸田國士の戯曲は、「読むのは簡単だけど、感じるのは難しい」と思います。正直、私は今も岸田國士の戯曲のことをよくわかっていないんじゃないかと思います。

 私が「これから戯曲をたくさん読んでいきたい人」にオススメしたいのは、三幕のイプセン『人形の家』(文庫版Kindle版)です。これは、課題としてちょうどいい「重さ」を持っていると思いますし、そのうえ、方々に多大なる影響を与えています。また、海外戯曲は、翻訳者によっても印象が変わることがあります。個人的に、もっとも読みやすいと感じたのは、矢崎源九郎さんの訳です。今、アマゾンのキンドルで安くで手に入るようですので、是非手に取ってみてください。

声に出して読む

 戯曲を手に取ったら、すべてのセリフとト書きを声に出して読むのが、理解するには最速の方法です。もっといいのは、誰かと一緒に読むことですが、私は友達がいないので、一人でいつも声に出して読んでいます。「『戯曲の読み方』は何ですか」と聞かれたら、「声に出して読む」と答えればそれで終わり、ということになります。これだけはすべての戯曲に言えることです。
 とはいえ、どんなものにも、はじめはガイドが必要です。ガイドしてくれる本も、世の中にはたくさんあります。しかし、そういうものをこれまで読んできて、どうにも痒い所に手が届かない、という感覚でした。それぞれの本が書かれた時代の要請もあったのだと思います。つまり、「今までの時代の演劇はダメで、筆者の演劇がすごいのだ」という意図があるかもしれないのです。ここでは、そういう本の力も借りつつ、その背景も意識しながら、これから戯曲を読んでいきたい、学んでいきたいという人にとってのイントロダクションになるようにします。主に私が参照するのは、三島由紀夫、別役実、井上ひさしの解説本です。この三人だと、井上ひさしがいちばん説明がわかりやすいと思います。そのほか、各戯曲の後ろについている解説や改題も役に立ちます。本編を読む前に、解説から目を通すのも悪くないでしょう。

 イプセンの次によく名前が挙がるのは、チェーホフというロシアの作家です。『かもめ』『三人姉妹』は、「戯曲の解説」と題されたものには必ずといっていいほど出てくると思いますが、これもシェイクスピアと同じように、人物が多く、ややハードルが高いと思います。海外の作家ばかりになってしまいますが、

イプセン → シェイクスピア → チェーホフ

という順序でそれぞれ2~3作読めば、教養を積むうえで、ある程度大事なポイントは抑えらえると思います。もちろん、〈演劇〉をよく知る人物たちからは、アレはどうだ、コレがないと話にならないなどと物言いがあるかもしれませんが、「入門編」というならこれくらいで十分でしょう。このへんを抑えることができたら、あとは気になった順にどんどん読み進めていけばいいと思います。

とにかく何か提示してほしいというならば、

・イプセン『人形の家』(文庫版Kindle版)『幽霊』(文庫版Kindle版
・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(文庫版Kindle)『ハムレット』(文庫版Kindle版)『リア王』(文庫版Kindle版) ※1
・チェーホフ『かもめ』『三人姉妹』『桜の園』 ※2

あたりです。現代人は忙しいので、すべて読むことは難しいかもしれません。しかし、声に出して読むなら、1作につき、半日もかかりません。いちど声に出して読んでしまって、あとで気になる部分を見返していくという方法で読むと、実は長編の小説なんかよりもぜんぜん時間がかかりません。戯曲は短時間で、教養を積むためなら、コスパ最強の文学ジャンルと言えるでしょう。

※1 シェイクスピアなら福田恒存訳をオススメします。新潮社から文庫化されています。(リンク参照)
※2 チェーホフなら神西清訳をオススメします。こちらも新潮社にて文庫化されています。(リンク参照)

セリフを読む――イプセン『人形の家』

 井上ひさしは、しばしば戯曲を書くお手本としてイプセンを例に出します。イプセンの戯曲では、冒頭の会話のなかで、この劇の主題が示されているというのです。
 『人形の家』の冒頭の会話の一部を見てみましょう。ノラは、ヘルメルが見てないところで、マクロンを口に入れますが、そのあとヘルメルとこんなやりとりをします。

ヘルメル 甘いお菓子をちょいとなめてみなかったかい?
ノラ ええ、ちっとも。
ヘルメル マクロンの一つ二つ、しゃぶらなかったかい?
ノラ ええ、あなた、ほんとうですってば

イプセン(矢崎源九郎訳)『人形の家』新潮文庫、1967年、12頁。

ノラはヘルメルに嘘をつきました。そして、この何気ない会話の裏に、この作品のテーマは、「嘘」であると示唆されている。戯曲を最後まで読んでみると、そう考えることができます。このように冒頭の何気ない会話のなかに、大事なことが隠されている、ということが戯曲ではよくあります。都合がいいので、三島由紀夫『文章讀本』を引用してみます。

ですから私は芝居の幕開きに遲れてくるお客さんを、もっとも芝居を知らないお客さんだと思ふのです。幕開きの十分ないし二十分の會話は、シチュエーションの説明として最も重要なものなのであります。さうしてそれがさり氣ない會話であればあるほど、おのづからその中にシチュエーションが織り込まれてゐるので、ほんたうは観客が一刻も耳を休ませないで、耳をすましてゐなければならないものこそ、幕開きの場面なのであります。

三島由紀夫『文章讀本』(『三島由紀夫全集 第28巻 評論Ⅳ』所収、1975年、475頁)

なお、この『文章讀本』のなかで三島由紀夫は主に会話にしか言及していません。この点はこのあとの「戯曲が読みにくくなっていく」という話において、注目に値します。戯曲はある時期から、さらに読みにくくなっていくのですが、「ト書き」のありようが変化したことも、その原因の一つとして挙げられます。しかし、そのような「ハードルの高い」戯曲を読む前に、イプセンやチェーホフといった戯曲を読んでいくところからはじめるべきだと思います。とにかく、まずはイプセン『人形の家』を、手に取って読んでみてください。三島由紀夫の同じ文からもう一言、引用しておきます。

現在でも戲曲の單行本は最も賣れない種類の本の一つであります。しかしいったん戲曲を讀むことに親しんだら、その面白さは小説以上のものでありますので、私は戲曲の文章についてくはしく説明して、讀者諸氏に戲曲の文章を讀むことに親しみをもつていただきたいと思ふのであります。

前掲、473頁

ト書きを読む――読みにくくなっていく戯曲

日本の戯曲でも、海外の戯曲でも、ある時期を境に読みにくい戯曲、言い換えると、あらすじが書きにくい戯曲が増えていきます。その原因となった作品を挙げるなら

ベケット『ゴドーを待ちながら』
ミュラー『ハムレット・マシーン』

などでしょうか。少しでも演劇を勉強すると、絶対に名前を聞くことになる二作です。最初に紹介したチェーホフやイプセンが読めたら、ぜひ手に取ってみてください。

1960年代頃からあらすじを書かれることを拒絶しているような戯曲が出てきます。日本の戯曲でも、同じ頃に、同様に、あらすじが書きにくい戯曲が増えていきます。先に私が「ハードルが高い」と書いたのは、そういう戯曲のことです。ここで例を出しながら説明してきますので、なぜイプセンをはじめの人に強くオススメするのかについてもわかってくると思います。

またイプセン『人形の家』を見てみましょう。冒頭のト書きです。とても長いので、半分だけにします。

居心地よく、趣味ゆたかに、しかし贅沢でなくしつらえられた部屋。後景右手には玄関に通じる扉がある。同じく左手にはヘルメルの事務室に通じる第二の扉がある。この二つの扉の間に一台のピアノ。左手の壁の真ん中に一つの扉、その少し手前に一つの窓。窓の近くに円いテーブルと二、三の肘掛椅子と、小さいソファー一つ。右手の横壁のやや奥に一つの扉がある。同じ壁の前より陶製暖炉があり、その前に一対の肘掛椅子と揺り椅子が一つ置いてある。暖炉と横扉の間に小さいテーブル。あちこちの壁に銅版画がかかっている。陶器の置物やそのほかちょっとした美術品の置いてある飾り棚。美しい装幀の書物を入れた小さな書棚。床には絨毯が敷いてあり、暖炉には火が燃えている。冬の昼。

イプセン(矢崎源九郎訳)『人形の家』新潮文庫、1967年、5頁

ベケット『ゴドーを待ちながら』の冒頭はどうでしょうか。

田舎道。一本の木。夕暮れ。

ベケット(安堂信也・高橋康也訳)『ゴドーを待ちながら(ベスト・オブ・ベケット1)』白水社、1990年、7頁。

ベケットさん、そこってどこすか!?

 どちらも視覚的状況の説明があって、そのあと人物が現れて物語がはじまることは共通しています。『人形の家』では、部屋の様子が詳述されている一方で、『ゴドーを待ちながら』では、とてもあっさりしています。わかりやすいように、あえて極端な二つを提示してみました。こうした違いについて、別の戯曲を用いて説明している、太田省吾のテキストを紹介します。

・・・(略)・・・戯曲を特徴づけているのは、その制約である。つまり、舞台という特殊な空間の中で、演じられるという想像的な枠を発想に強制している。しかし、発想に枠を強制するということは、例えば、詩、歌、句を考えてみればわかるように、戯曲だけに特徴的なことではない。この枠とは同時に、発想の発条の形式である。(戯曲集『小町風伝』あとがき)

・・・(略)・・・たとえば、チェーホフ『三人姉妹』の冒頭のト書きを見てみる。

 ブローゾフ家の客間、円柱が並んでいて、その奥に広間が見える。正午、外には日光が溢れて楽しげである。広間では食事の用意をしている。

ト書きの文章というものはぶっきらぼうなものでとっつきにくいかもしれぬが、内容としてはこのように書き出された戯曲はなめらかに読みはじめることができる。

(略)

ここで、別役実の戯曲『あーぶくだったにいたった』の冒頭のト書きを例に見てみる。

 下手に、古い電柱。その上の方から斜め上手に、雨にさらされて汚れた万国旗が、たれ下がっている。電柱の中程に、黒い電話の受話器がぶら下がっている。上手にポストがある。中央にむしろが敷かれ、金屏風が立てまわされ、並んだ座布団の上に、白無垢の花嫁衣裳に身を包んだ女1と羽織袴の男1が、ややうつむいて座っている。

チェーホフの例と比較したなら、いわばでたらめな世界である。ここにあるのは現実にありえぬ物の配列である。しかし、どこにもありえぬが〈舞台〉ではありうる。

太田省吾「戯曲を読むこと」(1978年)『プロセス 太田省吾演劇論集』所収、2006年、222頁~224頁)

太田省吾は、このテキストのなかで「制約的意識から発条的意識への変更」と表現しています。このような現象は、同時代に、いろいろな場所で発生し、いろいろな表現で説明されています。改めて説明しなおすならば、 「そこは、ブローゾフ家の客間、でなければならない」から 「そこに、古い電柱があるなら、何が想像されるだろうか」という変化です。そういう太田省吾自身はどのようなト書きを書いているのでしょうか。代表作『小町風伝』(初演1977年、初出1978年)の冒頭を見てみましょう。

襤褸の十二単に身をつつんだ老婆が、ひとり風のありかを訪ねるように、あるいはゆるい風に身をまかせるようにしてあらわれる。 立ちどまった老婆は、軀をなでる風を衣にふくんでゆれている。 衣は、時の漂白を受けて白い。

太田省吾『小町風伝』《リキエスタ》の会、2001年、10頁。

太田省吾が、どこまで自分の演劇論を意識的に作品に落とし込んでいたのかは不明ですが、やはりここまで示してきた

イプセン『人形の家』やチェーホフ『三人姉妹』

ベケット『ゴドーを待ちながら』 、別役実『あーぶくだったにいたった』、 太田省吾『小町風伝』

とでは、冒頭のト書きの言葉の持つ機能がまったく違うように思えます。どちらがいい、悪いの判断は不可能ですが、読む側としては構えを変える必要があることだけは確かでしょう。引き合いに出された別役実はといえば、ある書物で、以下のような文章を書いています。

演劇については、あまりややこしく考えない方がいい。年をとってくると、特にそう思う。ともかく何をどう書こうか、などということは抜きにして、ひとまず原稿用紙を前に置き、ペンを手にするのである。
 ただし、舞台空間は一応想定しておいたほうがいいだろう。これは絵で言えばキャンバス、料理で言えば器のようなものだからである。私はよくここに電信柱を一本立てる。舞台空間は、水平軸は保証されているのの、垂直軸への手がかりが、見失われがちなのだ。

別役実『ことばの創りかた――現代演劇ひろい文』(あとがき)2012年、論創社、340頁。

 チェーホフ『三人姉妹』のト書きでは、そこは「ブローゾフの家」でしかない。しかし、この文章の「舞台空間は一応想定しておいたほうがいいだろう」という一文からもわかるように、別役実の念頭にあるのは、「そこが劇場(=舞台空間)であるということ」です。つまり、「その場が劇場であること」を意識して戯曲が書かれるようになったとも言えます。劇場でしか表現しえないものとは何か。時代が現代に近づくにつれて、「下手には」とか「舞台中央には」とか「暗転」といった、いわゆる舞台用語が当たり前のようにト書きで使われるようになります。そのため、舞台というものが、ある程度わかっていなければ、戯曲を読むことが困難になっていきます。

 そして、舞台がわかるかどうかは、当然、劇場が身近にあるかどうかにかかっており、そうなるとやはり都会に住んでいる人間のほうが有利になります。これはどうしようもない現実ですが、戯曲を読むことと、演劇を観ることとが、セットになっている以上、劇場にも足を運んでいかなければならなくなります。このことに、多くの劇作家は無自覚なままです。それが良いことなのか、悪いことなのか、考えたことすらないでしょう。そこで、劇場が身近にあるかどうかと関係なく読むことができそうなイプセンやチェーホフをはじめに読むべきだとオススメしているのです。なお、シェイクスピアは有名すぎるので、別枠扱いです。

戯曲を読みながら――自分であらすじを書く

 とりあえず戯曲を読んでみた。しかし、自分がわかったのか、わかっていないのか、よくわからないという人は、自分であらすじを書いてみるのがいいと思います。文字数は、作品そのものの長さにもよりますが、200文字から400字程度を目安に、物語の「舞台設定」と「はじまり」から「終わり」を、知らない人に説明するつもりで書いてみると、自分がわかっていない部分とわかっている部分が明確に区別されていきます。  「あらすじ」と書きましたが、宣伝のときに使われているものとはやや異なります。ここで一つ例を出してみます。

明治40年頃。南街道の海岸にある小都会に住む、中流階級のつつましやかな家庭。長男の賢一郎は、役所勤めをしており、20年前に蒸発した父宗太郎に代わって、一家4人を支えてきた。そんなある日、突然父、宗太郎が帰ってくる。母、弟の新二郎、妹のおたねらは父を快く迎え入れようとする。しかし、賢一郎は20年の艱難を父に突きつける。それを聞いた父は諦めて、家を去る。母の哀訴やおたねの呼びかけに賢一郎は新二郎とともに、家を飛び出し、父を追い、幕。

これは、私が書いてみた、菊池寛『父帰る』の戯曲のあらすじです。しかし、宣伝の多くの場合では、これをそのまま載せるわけにはいきません。完全なネタバレです。フライヤーに掲載するのなら、例えば

明治40年頃。南街道の海岸にある小都会に住む、中流階級のつつましやかな家庭。長男の賢一郎は、役所勤めをしており、20年前に蒸発した父、宗太郎に代わって一家4人を支えてきた。そんなある日、突然宗太郎が帰ってくる――

このように書いてみます。宣伝の場では結末まではあえて書かないで、この先どうなるのだろうか、という気持ちにさせることが求められるわけです。ですから、どこかの劇団の公演情報のあらすじの欄を参照してみても、すべての内容が載っているわけではない、つまり、はじめから終わりまでという意味での「あらすじ」としては不十分なテキストしか出てこないのです。

 また、あらすじを書くためには、ボキャブラリーが求められます。例えば、この例で言うなら、「艱難を突き付ける」や「哀訴」といった言葉で、物語内の現象を一言でまとめなければなりません。これも一つの練習と思ったほうがいいでしょう。そこに、議論の切っ掛けが生まれることもあります。「いや、あれは『哀訴』というより、『懇願』だろう」と別の人が言うかもしれません。このような言葉の積み重ねによって、「あれは『〇〇』だった」の『〇〇』が、豊かになっていくのです。そうしていくと、『面白かった』・『よくわからなかった』以外の言葉が出てくるようになると思います。

 もう一つ、長めの戯曲で例を出してみます。

1934年6月、首相官邸で三人の「友」が、ヒットラーの演説を聞いている。すでにナチ党は、政権を掌握していた。互いに牽制しあう三者は、突撃隊の幹部レーム、ナチス左派のシュトラッサー、ドイツ鉄鋼業・重工業の重鎮クルップである。ヒットラーは突撃隊と軍部の度々の衝突、シュトラッサーとの政治的なすれ違いに頭を悩ませていた。独占資本家の老人クルップは、そんなヒットラーの相談役のようだった。(第一幕)。翌朝、朝食に遅れてきたシュトラッサーは、首相官邸でレームにヒトラー暗殺をはたらきかける。その後、ヒットラーはゲーリング将軍とヒムラー親衛隊長に、旅へ出ること、そして極秘である指令を下す旨を伝える。(第二幕)。レームとシュトラッサーは揃って粛清されていた。「君は左を斬り、返す刀で右を斬ったのだ」とヒットラーを高く評価するクルップとともに処刑の銃声を聞きながら、ヒットラーは「政治は中道を行かなければなりません」と云い、幕(第三幕)。

これは、私が書いた三島由紀夫の戯曲『わが友ヒットラー』のあらすじです。これが、宣伝のときには

1934年6月。ヒットラーの演説を聞く三人の「友」。すでにナチ党は、政権を掌握済みである。彼らのうち二人はやがて粛清される運命にあった。「長いナイフの夜」と呼ばれる事件をもとに、三島由紀夫が創作を盛り込んだ傑作戯曲。

と、これくらい短くなります。これだけの文字数では、自分がわかっているのか、わかっていないのかの確認にはなりません。また、「あらすじ」という言葉はかなり漠然としているのですが、「起きることをはじめから終わりまで順に書いていく」という意味くらいに思っておいてください。このようなトレーニングを積んでおくことは、作り手にとっても、受け手にとっても活動を豊かにしていくのに、とても重要な役割を果たします。戯曲を読みながら、練習してみましょう。なお、『わが友ヒットラー』は、『サド侯爵夫人』とともに新潮社から文庫化されており、たいへん手に入りやすいです。戯曲を読んでいくなら、『近代能楽集』と併せて、必ず手に取ることになるでしょう。

日本の戯曲も読む?

 日本の戯曲について、あまり紹介していませんでした。イプセン、シェイクスピア、チェーホフを読むことができたら、日本の戯曲も読んでいきましょう。個人的なオススメは、先ほど挙げた菊池寛『父帰る』のほかに、

岸田國士『紙風船』『是名優哉』『チロルの秋』
森本薫『みごとな女』

 このあたりに手を伸ばしてみましょう。手前味噌で恐縮ですが、『父帰る』『是名優哉』『みごとな女』は、劇団なかゆび時代の上演映像があります。戯曲は、青空文庫で無料で手に入りますので、こちらも合わせて一度ご覧になってみてください。

 海外の戯曲ばかり紹介して、日本の戯曲がこんなにも少なくなってしまっているのは、日本の演劇がある時期からイプセンやチェーホフといった「近代の戯曲」をお手本としてきたという歴史があるからです。イプセンやチェーホフの戯曲を起点にすると、そこから前にも後ろにも進んでいけるという感覚が私にはあります。このことには、〈近代〉という概念が目指したものが深くかかわっています。そして、〈近代〉は、私が生まれるよりもずっと前からとにかく「批判」されて尽くしてきました。そうした批判を読んでいくときには、さらにそれが〈近代〉そのものへの批判なのか、〈近代〉を誤解しているという意味での批判なのか、区別しなければならなかったりします。そうした議論について、まだ私は自分の言葉で語れるほどの知識を持っていません。そのうち、どこかで触れることになると思います。

戯曲を読んでいく

 ここまでできる限り、予備知識ゼロで読めるように努めました。「新劇」「リアリズム」「自然主義」「大正戯曲時代」「不条理演劇」「アングラ」などなど、ここまで扱ってきた戯曲や劇作家が属する時代の〈演劇〉をよく知る人物にとっては当たり前の、しかしその用法はボンヤリとしている用語を、あえて外しました。また、他の戯曲の解説書であるような「もちろんこれは読んだよね?」的なノリにもならないように、できる限り冒頭の引用のみにとどめました。これから先は、それぞれで自分の読みを深めていってほしいと思います。リンクが付けられるものには付けました。興味が出たものから手に取ってみてください。

 また、これまで読んできた戯曲について、このブログで紹介していきます。戯曲に興味はあるが何から読んだらいいかわからない人、上演戯曲を探している人、とりあえず読んでみたが、いまいち内容がわからない人などなど、そんなみなさんの助けになればと思います。また、この活動を通じて、戯曲がたくさん読まれるような状況をつくっていければと思っています。