劇団辞めてドイツ行く(41)ROSSMAN(ロスマン) と DUSSMAN(ドゥスマン)――2024年11月22日
ROSSMAN(ロスマン) と DUSSMAN(ドゥスマン)
アホなので、ROSSMAN とDUSSMAN があることに今日気がついた。DUSSMAN は本屋、ROSSMANはドラッグストアである。ROSSMANを本屋だと思っていたので、いろんなところにあるなぁ、それなのになんでみんなわざわざフリードリヒ通りに行くんだろう、と訝しがっていた。人前で恥ずかしい間違いをしなくてよかった。
今日最後の授業だというのに、なぜか朝9時からではなく、午後13時からに変更され、空いた午前中にDUSSMANに行ってきた。ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を買いたかったが、『職業としての政治』『職業としての学問』しかなかった。日本文学コーナーに行くと、谷崎が何冊かあって『鍵』と『陰翳礼讃』のドイツ語版だったのだが、どちらも日本語では既読で、とりあえずより読み込んだほうの『陰翳礼讃』を買った。それからついでに見つけたチェーホフ『桜の園』と、せっかくドイツなのでというミーハー心で『若きウェルテルの悩み』をそれぞれ購入。『ウェルテル』の裏表紙には「今日まで、ウェルテルなしのドイツ語授業なんてなかった」とある。他にもいくつか気になったが、やめておいた。カント『純粋理性批判』やマルクス『資本論』などの鈍器本なんて買っても荷物になるだけだ。とりあえず、『陰翳礼讃』『若きウェルテルの悩み』『桜の園』を課題図書とする。なお、店員に「在庫ありますか?」と訊ねる度胸はなかった。
わざわざドイツにきてドイツ語訳された日本文学を買うのは、そちらのほうが日本で手に入りにくいからである。『ウェルテル』は記念に買ったが、ゲーテ、カントやブレヒトくらいなら、古本屋をあたれば原文の入手はそれほど難しくないし、いざとなれば国立国会図書館に行けばいい。ところが、ドイツ語訳された日本文学など、日本ではピンポイントの需要しかないだろう。
ドイツの古本屋にも行ってみたかったが、今回は叶わなかった。その前にドイツ語をやらねば意味がなさすぎる。
今京都のトランクルームに残している積読も、まだなかなかの量である。まだ三島由紀夫の全戯曲を2週間くらいで読破しただけである。果てしねえ。あのときは疲れたなぁ。全部声に出して読み、録画してある。去年くらいから『井上ひさし全芝居』に入ったが、まだ『道元の冒険』で止まっている。この上新メンバー加えるのかよ、と他の本に突っ込まれそうである。
最後の授業が終わった。軽くC1に触れる。明日デュッセルドルフに出向いてから、その後帰国する。ドイツ語は頑張ったがまだまだ自分の思うレベルに達せていない。先生が変わるとまったく何を言ってるのか、わからなくなる。とりあえず、インプットもアウトプットも量をこなすしかない。ここまで来たらとことんやりぬくしかない。
いろいろ見聞きして、現段階で言葉が使えなくても、なんとか暮らせることはわかった。しかし、なんとかなってしまうと、そこからさらによくするのが難しくなる。というか、言葉が一つの目的を果たしてしまうので、もっとよい言葉を話そうというモチベーションが保てなくなる。劇作家なので、言葉には人一倍敏感でなくてはならないし、演劇がとにかくわからん。
そんななかでも、ちゃんと演劇を観に行き続けたのは正解だった。ベルリンでは平日でもつねにどこかで演劇をやっているうえに安い。少なくとも京都では絶対に無理な数とバリエーションの観劇数である。これで何のために来ているのかを意識し続けることができたのは間違いない。
まがりなりにも社会人としていろいろな場所で働いて、学生に戻った。3ヶ月では足りんので、これを冬休みと捉え、どうにかしてこの期間を延長する。学んで、力をつけねばならない。
とりあえず、20代でやりのこしたリストが消えた。浪人し、学生劇団と軽音サークルをかけもち、バイトして、恋愛もして、厳しいゼミに入って卒論を書き、就活して留年し、もう一度就活して、やっぱり劇団をちゃんとやりはじめ、生きるために働き、海外公演を経験し、賞をとり、東京公演もやった。当然、出会いに死ぬほど恵まれていた。
もうちょっと学生気分を味わうが、いい加減、大人にならねばならない。