【ドイツ 演劇】Hund, Wolf, Schakal (べザード・カリーム・カハニ『犬、狼、ジャッカル』)――2024年11月17日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater
「高くて買えない」
作:Behzad Karim Khani
演出:Nurkan Erpulat
観劇日 :2024年11月17日
上演時間:2時間休憩なし
ものは試しということで、はじめて後方の座席を選んでみた。開演前からすでに間違えていた。ドイツ人の平均身長は180センチ。マクシム・ゴーリキー劇場の1回席は傾斜があまりないため155センチの自分にとってかなりしんどいことになった。もう何回も来ているというのに、「真の愚者は経験からすら学ばない」。ビスマルクさん、昨今はもはやそういう時代になっております。
俳優はすべて男性、筋トレのシーンがあったりと、先日観劇した『群盗』とは真逆の、マッチョな質感である。二人の少年が出演していた。たぶん声変わりもしていないくらいの年齢だった(後述)。衣装は黒ではじめは統一されていて、舞台には長方形の枠が大小二つある。小さい方は前後したり回転したりするのだが、それによって世界観が分けられる。シンプルだが、これと照明との組み合わせで多彩な情景描写が可能になる。
Hund, Wolf, Schakal は、もとが小説らしく、革命後のイランからドイツへ移住した者の物語である。セリフの中には、パブリック・エネミー、ランボー、ジェイジー(Jay-z)などが登場、ラップやロックを意識した音響も、アメリカ好みを思わせる。後ろの席からはよく見えなかったが、缶のコーラを飲む、飲んだものをそのまま缶に戻す、そして、「飲め」と言う場面があった。『群盗』でもツバを互いの顔に吐き合う演出があって、ゴーリキー劇場はこういうの好きだなぁと思う。そのほかにも英語字幕のズレを詫びるなど、観客とラフにコミュニケーションを取る演出も多く、ドイツで最初に観た『ENDGAME24』では例えば観客にシャンパンを振る舞うというものがあった。「チェ・ゲバラはマック食わねぇだろ」というセリフは笑った。
シェルミン・ラングホフ氏が芸術監督に就任して以来(2013年、現在は共同)、ゴーリキー劇場は客層が若くなったらしい(内野儀「〈公共〉とは何か――ベルリンから」『アーツカウンシル東京のコラム』2015年12月18日)。確かにドイツ座やシャウビューネ劇場よりも、そんな印象はある(とはいえ、確認したコラムは9年前)。この作品も、アメリカ的な要素を感じさせるところがあり、それが「若さ」として映るのだろう。この感覚には、スラッシュを入れた、「欧/米」の思想的根深さがあるように思うが、このことについては別の機会に考えたい。何より、ラストシーン。二人の少年の俳優(※)が、無邪気に客席後方から走ってくる。玩具の銃を撃ち合いながら、やがて舞台奥に消えていく演出は美しかった。同じ演出が中盤にもあったのだが、この繰り返しが単なる一方通行の表現を、「記憶の共有」へとグレードアップさせる。同じ演出を繰り返すという手段の有効性をここで確認することができた。
とはいえ、後ろの席は見にくかった。他にも集中できていなさそうな観客がちらほら見受けられた。会場にもよるが、ゴーリキーなら多少高額だったとしても、真ん中より前のほうがいいだろう。などといいつつ、貧乏性が出て、また間違えそうだけれども。また、ゴーリキー劇場は比較的予約が取りやすいように感じた。シャウビューネは、とくに人気のものになるといつも売り切れになっていた。もちろん、観ようとしたのが『かもめ』とか『ハムレット』とかだったので当然といえば当然なのかもしれないが、これには何か考えるべき差があるのかもしれない。なお、ゴーリキーの作品が売り切れていることも普通にある。
そういえば、最近、ルームメイトが二人になった。一人はベラルーシ、もう一人はエクアドルからそれぞれ来たらしいが、二人とも、英語もドイツ語も覚束ない。ベラルーシの彼には、„Dein Problem ist mein Problem!" と恰好をつけてみた。袖振り合うも他生の縁。あるいは情けは人の為ならず。いずれにせよ一週間くらいなので、できることはやろう。
https://www.gorki.de/en/hund-wolf-schakal
※ ↓ 少し気になったので調べてみた ↓
ゴーリキー劇場では、二度、子どもが出演している作品を観劇した。これについて法律的な部分がやや気になったので、日本語で検索をかけてみた。
日本では、労働基準法第61条において、年少者(18歳未満)の午後10時から午前5時の深夜業は禁止されている。生放送の歌番組で、AKBの面々がこれを理由に楽屋に下がったのを観たことがある。学生のとき1年ほど居酒屋でバイトしていたが、高校生は22時までのシフトになっていた。
ドイツではどうなのか。一次資料はすぐに参照できなかったが(というかドイツ法原文読解は絶対無理なので許して)、「年少労働者保護法」(Gesetz zum Schutze der arbeiten Jugend= Jugendarbeitsschutzegesetz, 1976)というものがあるらしい。児童(15歳以下)、年少者(15歳以上、18歳未満)とそれぞれ定義があり、児童の就労は禁止されている。ただし、この「児童の就労禁止」に例外がいくつかあり、その一つが「演劇」である。「15歳未満の児童であっても、申請に基づき、舞台興行、音楽界での演奏その他のパフォーマンス、広告を目的とする催し並びにテレビ・ラジオの収録、音声及び画像の提供並びに映画及び写真撮影などのメディア・文化領域では、監督官庁の特別許可の上で出演させることができる」。
時間にかんする決まりもある。年少者は午前6時から午後8時までの間だけ就労させることができる。逆にいえば、午後8時から午前6時までは就労できない、ということになる。これにいくつか例外があって、ホテル事業・興行では午後10時までとのことである。
さらにこれに、「ただし、職業学校に通学する前日は、講義が9時開始の場合、午後8時までしか就労させることができない」とのこと。
ゴーリキー劇場は19時半開演で、上演時間は2時間。つまり終演は21時半だったので、「職業学校に通学する前日」ではないということなのだろうか。
否。もう少し資料を読み進めてみると、以下のような規定もあるらしい。「監督官庁は、申請に基づき、舞台興行、音楽界での演奏…(略)…において、年少者を午後11時まで出演させることができる。ただし、監督官庁は年少者保護法が年少者の立ち入りを禁止した催し、演劇等においては、許可してはならない」。
また、あの少年の二人の俳優が年少者だという前提だが、やはり、ゴーリキー劇場はこの興行において、「監督官庁に申請をしている」ということになる。申請の際には、①親権者の就労同意書、②三か月以内に意思により発行された健康証明書、③授業進行に遅れないことの学校長の証明書、④青少年保護委員会の同意書が必要らしい。あっちこっち回って、たいへんだな。そして、「出演」(gestaltende mitwirken)も定義されていて、クロークの仕事、プログラムの売り子などは含まれないとのこと。
資料では、「児童を含む年少者が労働関係に入っている場合を想定して保護がなされている」という特徴が指摘されていた。これ以上は学者の仕事であるが、資料内で、面白かった点は、「監督官庁は、演目の台本などを調べて、児童の出演が第一幕で終了している場合には、就業時間を午後11時より前に設定することになる」という部分である。こうした柔軟性は、業務上の負担の裏返しである。担当者によって判断が異なるという場合もあるだろう。演劇に詳しくない役所の人に、台本を渡しても、だいたいどれくらいの時間感覚なのかわからない。演出によっても、長さが変わるのは当然のことだし、それが実際に何分になるのかは、作り手側も確実に推し量れないことである。
そういえば、局部を露出するような演出は今回のゴーリキー劇場の作品にはなかった。これにはこの年少者労働者保護法と、もしかすると「青少年保護法」もかかわっている可能性がある。
ドイツ法、ちょっとおもしろそうだな。さすがに原文で読むことはしないが、何か二、三冊日本語の入門書でも通読してみたいと思う。どうして、自分がこういうことに突っ込んでいくのかといえば、これは「表現の自由」「芸術の自由」に触れる領域だからである。「芸術ならば、何でもOK」というわけにはいかない。法律は、経験論的に積み上げられる。つまり、その国の法律は、その国の過去であり、歴史であり、文化であるということにある。これを読み取り、日本と比較することには価値がある。「過去は、われわれがなさねばならないことを教えてくれないが、しかし、われわれが避けねばならないことは教えてくれる」(オルテガ(桑名博訳)『大衆の反逆』白水社、1991年、90頁)。また、この規定の成立経緯には、少なからず劇場側からのアプローチもあったのではないだろうか。そうだとするならば、一般に政治的な取り決めにかかわることが多くないと言われる日本の演劇やエンタメの作り手にとっての、ヒントが得られるかもしれない。細かい規定があるということは、「議論がされた」と捉えられるからであり、あるいは、それは「力関係の和」だからである。ヘーゲルの弁証法などしょせん、机上の空論にすぎない。
そしてその歴史の「最先端」として、ベルリン政府は、文化分野の予算を10%削減しようとしているらしい。それで、#BerlinIstKultur と各地で抗議行動が行われている。ぜひとも、新自由主義者の皆さまにおかれましては、日本の惨状をご覧いただきたいものである。いろいろなもののおかげで、チケットが安くなっているベルリンでなければ、こんなにたくさんの演劇を観ることはできなかっただろう。はっきり言って、今ベルリンは「演劇だけが安い」。日本は、給料が安く、演劇は高い。あとは、『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』でも読んでほしい。そう、「舞台芸術は市場原理に任せると、お金持ちしか享受できなくなるよ」と主張するこの本がもはや高くて買えない、という笑えない状況なのである。。。(今Amazonで1万円弱。少し前は3万円した)。
【参考、引用資料】
鎌田耕一「諸外国における年少労働者の深夜業の実態についての研究 :演劇子役に従事する児童の労働の実態」『労働政策研究報告書』、労働政策研究・研修機構、No.62、2006年、186頁~216頁。
https://www.jil.go.jp/inst.../reports/2006/documents/062.pdf
内野儀「〈公共〉とは何か――ベルリンから」『アーツカウンシル東京のコラム』2015年12月18日。