【ドイツ 演劇】THE WORK ――2024年11月1日 フォルクスビューネ劇場 Volksbühne

「居心地の悪さ」

演出・テキスト:スザンヌ・ケネディ Susanne Kennedy
コンセプト:マルクス・ゼルク Markus Selg
観劇日:2024年11月1日
初演日:2024年5月30日

 合理化は、心地よいものでないということに人間が気がついたのは、実は最近のことである。合理化というのは、あらゆるものの数値化であり、近代化であり、データ化のことである。共産主義は、平等で、理想的・究極的な社会形態であり、資本主義社会の国々もいずれは〈革命〉によって、共産主義へと至るものと考えられた。資本主義社会では、機会のみ平等であればそれで事足りるが、結果すら平等にしようと目論んだのが共産主義の社会であった。「結果の平等」は、案外社会の運営において日本でも重視されているのだが、教育においては少なくとも「結果の平等」の扱いは小さく、あまり論じられることもない。もちろん、現実は違って、いったん「大文字」の「歴史は終わった」。

 窮めて合理化された空間において、人は居心地の悪さを感じる。そういう空間を、本作は観客に体験させる。演者たちは、「一様な」顔をしたマスクを装着している。これは、もしかしたらルッキズムに抗う一つの術なのかもしれない。すべての人間がまったく同じ顔のマスクを装着することが一般化すれば、ルッキズムは退潮するだろう。原理的には正しいように感じられる。ところが、原理は原理であり、実体を伴うものではない。「私は私自身と一つではない」(ジャック・デリダ、ジョン・D・カプート『デリダとの対話ーー脱構築入門』法政大学出版局、2004年、18頁)。

 はじめにテレビのトークショーが演じられる。日本のバラエティでも「笑いを足す」と言って、家事をしながらでもどのような場面なのかわかるように「笑い」が足されているのだが、演劇だと、それがいかに「作為的」なものなのかが露わになる。つまり、はじめに、露見した作為の合理化が、主題を表明する。

 続いて、観客は舞台上に誘われる。劇は4、5つの空間で、それぞれ進行していながらも、時折拡張された「声」によって、シンクロする。舞台の色味の奇天烈さもさることながら、音響空間の設計が絶妙だった。常につながっているような感覚は、スマホでいつも誰かと連絡を取り合うわれわれ現代人のアナロジーなのかもしれない。

 舞台に誘われた観客はどこにいてもよい。途中で移動することもできる。ところどころ椅子も用意されているが、それは全員分にはまったく足りないので、途中からほとんどが地べたに座り込んで鑑賞していた。カビの生えた表現になるが、固定された「舞台と客席の関係をズラす」表現である。

 共産主義に言及してみたのは、こうした取り組みのすべてにおいて、現在の日本人としての私とのリアリティの差を痛感したからである。ベルリンの壁が崩壊したのは、私が生まれるわずか4年前のことである。私は一時期、極度の合理化を受け入れつつあった。しかし、それは「人間的ではない」。今の違和感は、いずれ必ず巨大な問題となる。それを本作は少なくとも私よりは先回りして構造化し、”We love you. You did the work, and that’s what counts” で締めくくる。たぶん、われわれはまだ旅を続けねばならない。メガテックは、躍起になってメタバースを探求しているが、実際には「さらば、忌まわしきわが身体」と言える時代にはほど遠い。