【ドイツ 演劇】Fidelio (ベートーヴェン『フィデリオ』)―― 2024年11月1日 ベルリン・ドイツ・オペラ Deutsche Oper Berlin

まだ、というかずっと未完のプロジェクト

初演(ウィーン):1814年5月23日
初演(ベルリン・ドイツ・オペラ):2022年11月25日
音楽監督:Stephan Zilias

 先日、Deutsche Oper Berlin に行った。先日のKomisch Oper Berlin は、子ども向きのものだったので、事実上これが初めてのオペラ鑑賞になる。演目は、ベートーヴェン『フィデリオ』、観劇日は2024年10月26日、Musikalische Leitung (音楽監督※)は Stephan Zilias 、レオノーレ(作中で、フィデリオという偽名を用いる)は、ジェーン・アーチボルト(Jane Archibald)。劇場HPでは配役の順序は、アルファベット順になっているようである。2時間30分、途中休憩あり。英語字幕、ドイツ語字幕付き。

 毎度毎度不勉強でたいへん恐縮である。本作がベートーヴェン唯一のオペラである、ということだけは事前に知っていた。かなり前の話になるが、東京芸大の作曲科に行った同級生からオペラ一緒に作ってみないかと誘われたものの、オペラを作るために必要なことや知識が圧倒的に欠けていて、実現にはいたらなかった。自分の文化圏にオペラというものが存在していなかったとはいえ、真剣に取り組んでいれば、人生が変わったかもしれない誘いだった。ほんとうにもったないことをしたと悔やんでいる。そして、この誘いがあったときに、新書や入門書の類を数冊一気に読んだときの浅い理解しかない。完全な「ニワカ」である。

 『フィデリオ』の舞台は、16世紀末スペインの設定で、初演(第1稿)は1805年11月。せっかく苦労して書き上げたのに、オーストリア、ウィーンの観客はフランス軍人ばかりだったらしい。前後の基本的な歴史を確認しておくと、フランス革命が1789年、ナポレオンの戴冠式という残念な末路が1804年10月で、同年12月に有名な『英雄』の初演がある。

 ヘーゲルは、『精神現象学』の執筆中で、自国が侵略されているのに、「世界精神が馬に乗っている」と絶賛していた。それから20年ほど経った頃の講義録、『歴史哲学講義』にはこう書いてある。

ドイツ人は抽象理論のもとにとどまったのに、フランス人が理論から実践へとただちに移行したのはなぜか、という疑問にかんしては、フランス人は短気だから、ということもできるが、もっと深い理由があります。(1)

 これはドイツの文化、思想を語るうえでかなり重要なことを端的に示唆したテキストだと思う。そしてこのような「ドイツ特殊論」は、「日本特殊論」の下敷きになっているので、日本の近代以降の文化、思想にとっても重要になる。そう考えてみると、ベートーヴェンというドイツ文化を代表する作家からの出力として『フィデリオ』の筋が持つ、高潔さ、気宇壮大な面は注目に値する。

 オペラの筋は、政治犯として投獄された夫のために、フィデリオという偽名を使って監獄に潜入し、悪人を成敗したうえ、夫を救出するにいたる妻、というものである。これだけでも、わかりやすい勧善懲悪ものという印象がある。だから、悪役のピツァロ所長はもはやコミカルにすら見えた。オペラの演技というもののバランス感覚は最後までよく理解できなかった。しかし、美術は一幕、二幕ともに好みで、一幕ではなんとなくベルリンの壁を思わせる壁がコの字型に舞台を囲み、中央にさらに処刑台のようなアップされた空間がある。二幕はその地下であるという心持ちで、先ほどの舞台にあった脚立は、一幕では下の方が見えなかったのだが、二幕では逆に上方が幕のようなもので見えなくしている。発想は単純だが、演出初心者は覚えておいて損はない手法だろう。 

 こういう歴史的な話とか、表面的な現象だけでなくて、もう少し、オペラという芸術そのものに対する知識があればもっといろんなことがわかったのかもしれない。しかし、そんな言い訳をしていては、オペラ以外でも、どこにも足を運べないということになる。「英語がわからないとシェイクスピアは理解できない」、「ロシア語も話せないくせにチェーホフを語るな」というのはあまりに窮屈な視点である。それでも、知れば知るほど、わからないことは増えるものである。こういうとき、2017年に大学での授業(いわゆる一般教養の授業「日本美術史概説」、同志社大学では全学共通教養科目という)をきっかけに知った加須屋誠先生の書籍の冒頭を思い出すことにしている。

この方法(パノフスキーの図像解釈学)が著しく主知主義的であることだ。はっきり言うと、パノフスキーは頭が良すぎる。『イコノロジー研究』を手にした世界中の読者がおそらく例外なく全員一様に驚嘆するのは、著者の西欧文化全般にわたる並外れて膨大な知識量だろう(2)。

典拠文献への傾倒、作者の意図の重視――右に指摘したパノフスキーの問題は、次の三つ目の問題点へと結びつく…(略)…いうならば、歴史的な縦への「深まり」が常に重視されている。しかし、図像=表象の意味とは「深まり」と捉えなくてはならいものだろうか(3)。

 仏教説話画だろうと、オペラだろうと、繰り返し鑑賞するうちに、この問題に出くわすことになる。何が正しい意図・意味であるかという、A=Bの近代的構図に、知識が深まれば深まるほど執着する羽目になる。見巧者様にマウントを取られることもあるだろう。ドイツ語も英語も十分に理解できないという絶望は、しかし、このストレスをやや和らげる。まあ、もう仕方ないじゃないか、と。

 だから、『フィデリオ』の歌唱のどこがどう難しいのか結局よくわからなかったし、これは笑えるシーンなのか、真剣に見るべきシーンなのかの理解のために、会場の雰囲気を一つの手がかりとすることを、恥ずかしいことだと思う必要はないのかもしれない。いつもドイツの劇場は素直にリアクションをとる人が多い印象なのだが、今回のオペラのほうはやや控えめな印象だった。ずっと笑っている若い観客が近くにいたのだが、それでも「クスクス」という感じで、これは雰囲気を象徴する振る舞いに思えた。

 ドイツ語は字幕があって、一つ一つが演劇の会話などよりも、ゆっくり進むので意味するところを理解するにはやや楽だった。現在の語学学校にも、直接面識はないがオペラの勉強のために来ている学生がいるようで、まれに歌声が聞こえてくる。そういう道になると、求められる語学力も変わってくるのだろうか。

 ポピュラー音楽のように、自分にとってわかりやすい旋律はあまりなかった。これが難しいといわれる所以なのだろうか。あるいは、プッチーニ『トゥーランドット』の『誰も寝てはならぬ』のように、よく聞いたものではないからそう感じてしまうという個人的な問題なのだろうか。あるいは、ドイツ語やイタリア語でオペラにも当然違いがあるのかもしれない。もちろんある、というか、オペラそのものにも国ごとにいろいろなジャンルの流行り廃りの歴史があるので、今後別のオペラを観ていくにつれ、このときのことがもっと多様に解釈できるだろう。とにかく目についたものから観ていくしかない。

 かつて読んだオペラ関連の本についてのメモを漁ってみたが、まさかドイツで『フィデリオ』を観るとは7年前には想像もしていなかったためか、今回の理解の助けになるような記録は見つからなかった。いつどこで何がどうなるかわかったものではないのでいろいろ忘れないようにしたい。

(1)ヘーゲル(長谷川宏訳)『歴史哲学講義(下)』岩波文庫、1994年、355頁。
(2)加須屋誠『生老病死の図像学 仏教説話を読む』筑摩書房、2012年、22頁。
(3)同、28頁。

※Leitung は「指揮、監督、管理、指導」を意味する。ちなみに、動詞 leiten で「率いる」=(英)leadで、これに「入る」(ein)のニュアンスが加わると、Einleitung で「導入」=(英)Introduction の意味になる。なお、詳しい違いはまだわからないが、演出家は、Regisseur というが、語学学校の生徒にはほぼ通じないのでdirektorと言っている。先生にはRegisseurで通じる。