【ドイツ 演劇】Die Möwe (チェーホフ『かもめ』)―― 2024年10月20日 シャウビューネ劇場 Schaubühne
作:アントン・チェーホフ
演出:Thomas Ostermeier
初演日:2023年3月7日
観劇日:2024年10月20日
はじめてのチェーホフ観劇になった。田舎者なので、チェーホフなんかなかなか観ることができない。関西圏だと目ぼしいものに、地点や第七劇場があるが、結構がんばらないとそれらを「知る」かつ「観に行く」かつ「楽しむ」というところにまでたどり着くのは難しい。
しっかりと読んだことがある戯曲の上演なので、どこがどのシーンなのかなんとなく言葉がわからなくても理解できた。舞台の中心に巨大な木があって、それを使いまわしてシーンをつなぐ。いくつか場面を書き換えているようで、はじめのシーン、「喪服」の話をする場面では二人がサッカーをしながら登場した。ヨーロッパ人はサッカーが好きである。ドイツ語の学習においても、Fußball spielen (サッカーをする)は頻出である。
ほとんどこういう軽快な印象をキープしつつ演出されていた。『ドライブ・マイ・カー』で西島秀俊演じる家福が、「チェーホフは恐ろしい」と述べるが、「チェーホフは楽しい」というか、楽しくしてもらわなければ、恐ろしくなる、というのが実際のところなのかもしれない。自意識たっぷりの着想を作品の元手にする若い劇作家、演出家にとってはトレープレフはとてもしんどい。しかしながら、そういう若気の至りを「黒歴史」と言わず笑って思い出せるステージに立っていれば、『かもめ』はとても楽しいというか、笑えるものになるのだが、そのように演出するのは真剣に読めば読むほど難しくなってしまう、というのがチェーホフのすごいところである。
第一幕、トレープレフによる劇中劇の場面では、いかにトレープレフの自意識が肥大化しているのか、ということがほかならぬトレープレフ自身によって演じられるのだが、トレープレフが面白いのはここまでであった。母親に泣きつくトレープレフを、おそらく深刻に捉えてしまったのだろう。確かに、最後の自殺があるので整理をつけるためにはトレープレフを真面目にやらざるをえない。『桜の園』を書き終えたとき、チェーホフは「今回は銃の音がならない!」と喜んでいたらしいのだが、ほんとうはチェーホフは銃なんか、人の死なんか、扱いたくなかったのかもしれないなどと想像している。
第二幕のトリゴーリンのあの長いセリフの場面だが、あそこは、俳優の力でグッと観客を引き付けていた。improと字幕に出ているところもあって、観客とのやり取りを楽しむ仕様である。そういえば、トレープレフによる劇中劇の場面でも、同様に、観客にハミングするよう要求された。客席も終始明るくて、自分たちもその場にいるような感覚に陥るように演出したものと想像する。
最後の場面は、逆転していた。チェーホフは「大事なことを舞台裏にひっこめる」のが特徴なのだが、トレープレフが自殺する場面が、舞台の上で演じられた。結局、大木の後ろに隠れ、銃声が鳴るので、観客からは見えていない。これはまあ発想としてはわかるのだが、トレープレフとしては納得がいく結末なのだが、「喜劇」という意識にはそぐわないと思ってしまった。
チェーホフ解釈は、いつも割れるというか、揉めやすいトピックである。だから、実際に演出をしない限り、人とあまり議論したくない戯曲である。ルーマニアの演出家シェルバンによるチェーホフ演出では、「間を削ることでテンポをよくしようとした」らしいのだが、それに対して、日本のロシア文学者がある座談会で否定的な見解を述べていたのを読んだ。「チェーホフは、『間』が大事なんですよ…」と。ああ、もうめんどくせえな、と思うと同時に、チェーホフが提示する演出の困難に挑戦したいと思ってしまう自分も認めている。一度、チェーホフの演出は挫かれているので、いつか上演の機会を持ちたいと思う。