【ドイツ 演劇】SLIPPERY SLOPE――(ヤエル・ローネン『滑りやすい坂道』)2024年10月13日 マクシム・ゴーリキー劇場 Maxim Gorki Theater

全体から計画する

 大学のときに受けた、山谷清志先生の「政策評価論」と「行政責任論」の講義は示唆に富んでいた。朧気な記憶になるけれども、「よい政策をつくること」もしくは「よい政策をつくる人を選ぶこと」が目的とされ、「評価(evaluation)」の意味や「責任(responsibility)」と「アカウンタビリティ(accountability)」の違いや、非難する側の政治家がよく口にする「説明責任」という言葉が「アカウンタビリティ」を、矮小化したものであるということについて触れられたことをよく覚えている。最近でも、先週石破首相が衆院選における、裏金議員の公認について、「政倫審で説明責任が十分に果たされず、地元での理解が十分に進んでいない、そのように判断される….(中略)……候補者が選挙区において、説明責任を果たし、退路を断って…..」と語っている。たった一つの言葉について、その危うさや厳密な意味と使用されている意味の落差がわかっているだけで、ニュースがまったく違ったものに見える。よい講義だった。

 そして、「評価する」ことについても、人生にすら役立つような内容があった。曰く、評価できる政策と、評価できない政策がある。例えば、「期間や予算が定まっていないもの」、これは評価できない。だから、何かを企画するときに、スケジュールと予算を決定し、そこから逆算して何ができるかを考える必要がある。そうでなければ、その場その場であれがいる、これがいる、それを達成するにはこれこれの期間が必要と、その都度判断していくことで、全体の規模は統制がとれないものになっていくだろう。演劇を作るとき、誰かの「創作意欲」だけを中心に作品を創作すると、それは際限ないものになる。赤字なのか、黒字なのかすら判断不能になる。

 個人的には、予算・期間についての判断と、創作過程における個別の判断はなるべく分けたいし、分けようとしてきた。もちろん、それで結果赤字になっても、何をどこでどう達成できなかったのか、後から判断することで事後に活かすことができるようになる。今、いったん11月23日を区切りとして計画を立てることで真剣に取り組むべきことが見えてきた。

 『お國と五平』と『文化なき国』までは「分母を知る」というレベルに留まってしまった。また、この分母も、物価や社会情勢などによって変動する。定義的には異なるのかもしれないが、固定費なんかない、すべて変動費じゃないか、と言いたくなる。昨日だったか、「芸術芸能スタッフ35%が過労死ライン」という刺激的なネットニュースの見出しを目にした。現実には、「それで作品がよくなるなら別によくね?」と本気で思っている者がいる。そういう世界に身を投じ、「やってもらいたいこと」と「払える金額」とをつねに天秤にかけて、筋を守り、倫理観を保てるラインを意識することにものすごく疲れてしまった。多くの人がいろいろなことを言いつつ、同時に見て見ぬふりをしている実態は悍ましい。

 ベルリンではどの劇場も盛況である。開演10分前まで、劇場のロビーや外でみんなウダウダ話していて、開場するとワッと入場する。ベルリンだから、というわけでもないのだと思うけれども、随所で作品を多くの人が心から楽しんでいるな、わかる声が客席から聞こえてくる。

SLIPPEY SLOOP

演出:YAEL RONEN(ヤエル・ローネン)
作:YAEL RONEN, SHLOMI SHABAN
作詞・作曲:SHLOMI SHABAN
出演:Emre Aksızoğlu, Anastasia Gubareva, Riah Knicht, Lindy Larsson, Vidina Popov

 前置きが長くなってしまった。観劇したSLIPPERY SLOPEは、「ALMOST MUSICAL=ほぼミュージカル」との記載があるように、歌が作品の中心に据えられた作品だった。昨日の,,Bark of Millions’’と同様に、また全編英語の作品になった。前から四列目、下手から5席目に位置に座る。昨日は上手よりに座って少し音の偏りを感じながらの観劇だったが、今回はそれほど気にならなかった。音響環境は、会場が大きいければ大きいほどいいというものではない。適正なサイズや構造というものがある。もちろん、作品も違えばまた見え方も変わってくるかもしれないが、今回の印象は自身の記録として残しておきたい。

 英語もそれほどわかるわけではない。ホテルの仕事で使っていたが、相応の文脈、限定的な条件下だったので、理解しできていたにすぎないである。ある程度話せて仕事をすれば、言語なんかどうにでもなる、などという単純な話ではない。しかし、おおまかな粗筋がHPにあって、演出や衣装で対比が示されていたうえ、ポピュラー音楽の知識がほんの少しあるので、ついて行って楽しむことができた。はじめに登場するミュージシャン、グスタフ(Gustav;Lindy Larsson)は、オールドスクールなファッションと歌唱だった。髪はブロンドの長髪でカート・コバーンみたいな印象の一方で服は80年代のハードロックミュージシャンを意識したのかもしれない。次に登場するスカイ(Sky;Riah Knight)は、はじめ、Gustavの一歩後ろにいるような素朴さのある衣装で、遠目で見るとシャイニングのシェリー・デュバルのようだった。ところが、スカイの衣装は次から奇抜でカラフルなものに変わる。音楽的にも明らかに、最近の流行りを取り入れて、SNSを通じて聴衆と触れ合っていることも表現されていた。衣装と音楽によって、スカイのキャリアがグスタフのキャリアを追いぬいたことが示唆されているのである。

 (ここで「最近の音楽」を例示するのにちょっと躊躇した。というのも、「ダッドロック」という言葉を最近知って、そのなかにリンキン・パークやリンプ・ビズキットが含まれていたことにショックを受けたからである。小さい声でKE$HAとかCarly Rae JepsenとかKaty Perryとか言ってみたかったが、みんな10年戦士だった。SpotifyをDLするところから始めねば)

 舞台は、Slippery Slopeというタイトルに呼応するように、舞台奥から客席にかけてかなり急な坂道が二つ交錯していて、これも物語の筋を暗示しているようなところがある。タイトルだけで試しにググってみると、’’a course of action likely to lead to something bad or disastrous’’(=何か悪いことや悲惨なことにつながりそうな行動)という日常的な慣用句らしい。映像を使った演出がやはり今回もあり、今回は特別ダイナミックだった。背景全体に例えば、グスタフがスカイに依存していくときは、返事が返ってこないことに憤慨する演技の背景で、スカイの顔が「イメージ」として原形を崩して大量に複製されて映し出された。音楽のジャンルも人物によって多岐にわたりながら、人物ごとのテーマを背負いつつも、作品の構成上の意図を(たぶん)汲んだものになっていた。あとふつうにみんな歌うまかった。

 演劇を観ているとき、いつもいろいろなことを考える。どんな作品でも、何かを考えることができる。それは自分にとって、とても大事なことである。また、鮮度が失われないうちに書いておかないと、そのままずっと考えてしまって、知らぬうちに忘れることでそれは消えて行ってしまう。すごくたくさんここに書いてきた。これに何の意味があるのかわからないが、自分の記録に救われてきたところもある。山谷先生の授業について思い出して、当時の記録をクラウドに保存していたので、すぐ呼び出せる。危うくレジュメを読み込んで小一時間過ごしてしまいそうになった。また今度にしよう。