【パリ 演劇】Maître obscur(タニノクロウ『ダークマスター』)――2024年10月5日 フランス国立演劇センタージュヌビリエ(T2G) Théâtre de Gennevilliers

帰りのFLIX BUS

 朝起きて、また食事をいただき、少し間をおいて自分もパリの夜行バスのターミナルへ向かう。夜21時のベルリンのターミナルとは違って、夕方6時のパリのターミナル bercy seine は混み合っていた。激しく出入りするなかから自分のバスを見つけ出せるかもわからず、人から先に出発された話を聞いたりもしていたので不安だったが、10分前に到着、ベルリンから乗り込むときにはなかったパスポートの提示も求められた。無事乗り込めたはいいものの、自分の席に見知らぬ男が座っていた。「ムッシュ、そこは僕の席ですよ」、というと「じゃあ僕の席はどこなんだ」と言って予約用紙を見せてきたので、「追加で支払っていたら座席指定ができて、それがないなら自由席ですよ」、というのをたどたどしく説明した。今回の座席にはUSB端子だけでなく、コンセントもあるので充電ができて安心である。WiFiもあるが、今回は利用者も多いせいか、まったく使い物にならない。いずれにせよ、Flix Busなら最前か最後尾の座席指定は必須に思える。

Maître obscur ――Théâtre de Gennevilliers

作・演出:タニノクロウ
出演:Stephanie Beghain, Lorry Hardel, Jean-Luc Verna, Mathilde Invernon, Gaëtan Vourc’h

 昨日(2024年10月5日)の観劇について書く。Théâtre de Gennevilliersは、パリの中でもやや郊外のところにあり、アクセスが少し難しい。それでも道すがら、会話からして劇場に行こうとしているであろう家族がいたし、初演(9/19)から3週間経過しているのにもかかわらず、会場は盛況だった。Maître obscur は、過去に日本でも上演された『ダークマスター』の仏語訳である。しかし、直訳されているわけではない(そもそも舞台も人物造形もまったく異なるのだが…)。dark=闇はどちらかといえば、光が当たっていない状態からはじまって様々な意味が派生しているようなのだが、obscure (不明瞭な、曖昧な)は「覆われた」からきていて、「何か重要なことが隠されているのでわかりにくい」ということらしい。obscureも、darkと同じように視覚的暗さを示すこともあるようなのだが、日本なら『ダークマスター』でその意味するところが了解しやすいが、obscureの意味が通じる文化圏ならば、こちらのほうが適切なのかもしれない。

 過去に大阪、阿倍野のオーバルシアターで上演された『ダークマスター』を観劇したときのようにヘッドフォンを渡されそこからMaîtreの声が聞こえたり、足音や咀嚼音が流れ込んでくる(なお、大阪のときは各席に設置してある片耳のみイヤホンだったと記憶している)。故あって最後尾からの観劇となったが、それでも俳優の一挙手一投足に集中してしまい、また「傍白」といった演劇における約束事がつねに批判されているような感覚もあった。また、慣れとは恐ろしいもので、ヘッドフォンをしていること自体を途中、マスターが話さなくなって以降忘れてしまった。イヤホンだったときはその装着感のせいか、身につけていることを強く意識せざるを得なかったように思う。しかし今回のヘッドフォンは軽く、不快に感じるようなことはまったくなかった。そのかわり各自にレシーバーが必要になっていた。それほど観劇中の負担ではなかったが、通信機器、音響機器の技術革新が進むごとに、さらなる洗練が見られるかもしれない。

 フランス語は3級に毛の生えた程度で、ほとんどわからない。さらにここ半年以上はドイツ語に完全に切り替えていたので遠い記憶となってしまった。しかし、笑いを生む表現の手つきに、『ダークマスター』や『笑顔の砦』にもあったようなものを感じることがあったり、またすべてを足で済ませようとする人物の動きなどはそれだけで笑えた。

 開演から舞台が動き出すまでのかなりの間はヘッドフォンから聞こえるセリフと咀嚼音のみであった。しかし、そんななかでも会場では笑いが起きていた。あとで確認したのだが、ヘッドフォンからのセリフは録音ではなく、ライブなのでステージによって揺らぎがあるようである。終始ここちよく聴ける声だった。フランス語の勉強をしていた頃に、リスニングテキストの音質が頗る悪くて聞いていられなかった。スクリプトやテキストの内容も重要だが、音響環境まで丁寧に設計されていなければ受け手は離れてしまう。本作の場合は、時折入るホワイトノイズさえも演出の範囲内であるかのように感じた。ぜひ、フランス語学習をも目的に含めながら、テキストとともに何度もじっくり鑑賞したいと思える作品であった。

 ベルリンだと10分前開場で同じかそれ以上の規模のVolksbühne でも遅れ客は数えるほどだったが、今回はそれなりに多かった(開演直前に客席で足つった自分の話はいったん棚にあげる、前日の投稿参照)。これはカルチャーの違いなのだろうか。過去に、「ドイツのラテン化を憂う保守派の人々…」みたいな記事を読んだことがある。たぶん何の根拠もない、感覚的な話にすぎないのだと思うが、フランスのようなよく言えばおおらか、悪く言えば緩慢な時間感覚が、ドイツにも流れ込んできてケシカラン!とのことだった。まぁ確かにそう言われると、ウェーバー『プロ倫』とか思い返してしまう。とりあえずドイツとフランスにはお互いもっと理解しあってもらって、小生のような観光客的立場のものが行き来しやすいようにさらなる統合を進めてもらいたい。

 劇場入り口には広い団欒スペースがあって飲み物も買える。終演後は自分も含めて俳優、スタッフ、観客と多くの者が残って楽しげに談話していた。ただ見て、ただ帰るのではない、その周りに発生するコミュニケーションについても今後よく検討せねばならない。どの程度のクオリティ、あるいはどのようなタイプの作品ならそこに可能性を見出せるのか。この体験から考えてみたいと思った。